愛されている自覚
今朝早く、家の門がそっと開き、しばらくしたらそっと閉じる音を聞いた。二階の寝室で聞きながら、誰が来たんだろう、と思った。けれど人は、その人の出す音にも性質が出る。今朝の音は、優しい音がした。なので、そのまま安心して、もう一度眠った。午後になって、門に一番近い勝手口のドアを開けようとしたら、ビニール袋が外の取っ手にかかっていた。
「あ・・今朝の音はこれだったのか」って思って、袋の中を覗いてみたら、レンチが入っていた。ずっと欲しかった、大きめのレンチ。オジが買って持ってきてくれたのだ。最近、体調がすぐれなくて買い物に行けなかったのを知っていたからだろう。
こころが、ふっと緩んで、暖かい気持ちになった。
わたしは、ずっと誰にも愛されていない気持ちをもって育った。家庭内のゴタゴタが幼少時から絶えなかったからだ。父も母も自分たちの夫婦間の問題と、それぞれが解消されていないなにかを抱えていて、子供達に、親としてこころが配れないような人たちだった。本人たちが子供のような人たちだった。
そんな中で育ったわたしは、自分は人に愛されなくて当然で、生まれてくるべきではなかったのかもしれない、と、どこかで思うようになったように思う。自分の存在が、無駄というよりは、邪魔なような気がしていたのだ。だから、どこかでいつも、息を潜めて生きてきたように思う。
ところが、自分が思っている自分と、人が思っている自分っていうのは、大抵違うもので、「あなたは自信に溢れている」とか「イキイキとしている」とか言われる。そして、そういう風に言われるたびに、いつも目が点になった。どこから見たらそんな風に見えるんだろう?
いつだったか、今朝のレンチのオジではない別のオジから言われたことがある。
「お前は、みんなに愛され、可愛がられて育ったから、そんな風に堂々と、自信を持って生きてこられたんだ。」
返す言葉がなかった。そんな風に周りは思っていたのか・・・と口をあんぐりするだけだった。一体全体、自信とか愛とかって、なんなんだろう、と長い間悩んだ。そして、結論した。
結局のところ、愛と自信の所在は、誰かに愛されているか、というよりは、自分で自分の存在を受け入れ、そして、愛せるか、ということにひとえにかかっているように思う。いくらみんなに愛されていたとしても、自分のことが愛せなかったら、愛は感じないだろう。そして、誰にも愛されていなかったとしても、自分で自分のことを愛せていたら・・・きっと愛に満ちていることだろう。そして、その「愛」は、自分以外のひとが存在して初めて成り立つ、相対的存在のエゴの愛ではない。存在そのもの「それ」自体の愛、である。
そして、自分のことを愛せたら、他人のことも、世の中のことも、神とも天とも言える、自分を超えた存在のことも愛せるのだろう。そして、誰かに愛される気持ちにもなれるように思う。だって、自分が愛せない自分を、他人が愛すわけない、とどこかで思うし、自分が愛せる自分は、他人ももしかしたら愛すだろう、と、自然に思えるはずだから。
わたしたちは、自分を愛すことを学ぶためめに生まれてきていると言っても過言ではないと最近は思う。そして同時に、自分のことを愛すのが、きっと、世界で一番難しいんだろう、と思う。
大げさに言えば、戦争も平和も、すべて、結局のところ、ここ、自分を愛せるか、に、かかっているのではないか、とさえ思う。みんなが自分のことを愛せたら、世界に愛と平和が訪れるような・・そんな気がする。