「ユニークである」ために「差異を作る」ことは必要なのだろうか。
今日も引き続きミハイ=チクセントミハイ(アメリカの心理学者)による『モノの意味 - 大切な物の心理学』の第2章「物は何のためにあるか」より「表現の三水準」を読みました。では、一部を引用してみたいと思います。
民族誌や歴史報告における自己の変遷をさかのぼると、伝統社会の人びとはたいてい個人的独自性を犠牲にして、統合された社会的自己を強調してきたように思われる(Geertz, 1973; Turner, 1969)。一方、近代の西欧文化は異なるユニークな私的自己を強調する傾向があったように思われる(Durkheim, 1897; Simmel, 1971; Arendt, 1959)。このように、私たちの文化においては、際限のない分裂の方が現実的なものに思われる。
ゲオルク・ジンメルは、「大都市と精神生活」という重要な論文の中で同様の懸念を表明している(Simmel, 1971)。そこで彼は、現代の都会様式の進展と個人性の発達とを関連づけている。ジンメルの見解によると、現代の大都会の中で遭遇する感覚の避けられない過負荷状態と匿名性は都市生活への適応手段として、「無関心な態度」 - 合理的な過度の強調 - を個人の中に引き起こす。無関心な態度、そして労働分業化の結果としての増大する専門家欲求が、「主観的文化」- 文化の客観的様式との相互作用において発展した個人的独自性の涵養 - の貧困を引き起こす。こうして、現代の大都会は両面的な事実を示す。
つまり一方では、伝統的規範と情緒的生活の崩壊によって個人性がますます強調され、他方「主観的文化」- パーソナリティの全体性をもたらす内的法則に従う - が、複雑で多様化した都市環境の圧力にさらされている。こうした都市環境は、過度に誇張された行動やマンネリズム、スタイルなどの擬似的な個人性を引き起こしやすい。パーソナリティの涵養可能性は開くものの、現代の都市文化は主観的文化の犠牲の上に孤立する個人性という過ちを助長し、多様ではあるが中心不在の自己を生み出す。
「パーソナリティの涵養可能性は開くものの、現代の都市文化は主観的文化の犠牲の上に孤立する個人性という過ちを助長し、多様ではあるが中心不在の自己を生み出す。」
この言葉が印象的でした。
特に「中心不在の自己」という言葉について考えみたくなりました。「自己の中心が不在である」とはどういうことなのでしょうか?
今回引用したのは、ゲオルグ・ジンメル(哲学者・社会学者)の研究に関する箇所です。その主題は「都市」です。
今でこそインターネットが普及して、世界中の情報に瞬時にアクセスできるようになりましたが、インターネットが普及する以前は「都市」が情報発信の中心地であったことは容易に想像できます。
人が集まって情報を交換し、他を模倣しながら、差異を生み出していく。そうして、物やサービスが多様化し、文化は豊かさを増していく(ように見えているだけかもしれない)。
「このように、私たちの文化においては、際限のない分裂の方が現実的なものに思われる。」と著者は述べていますが、伝統社会では個人の独自性よりも社会的な自己(社会の枠組みに自己を当てはめていく)を、近代西欧では私的自己(社会からの逸脱や差異化)の方向に向かってきたという観察は、示唆に富んでいるように思います。
「染まりながらも染まらないようにしてゆく」と言えば良いのでしょうか。他者との差異を作ることで「ユニークな自己」というものを成立させようとする。
「ユニークである」とはどういうことなのでしょうか。他者との差異を作ることは「ユニークである」ことに必要なのでしょうか。
「無関心な態度、そして労働分業化の結果としての増大する専門家欲求が、「主観的文化」- 文化の客観的様式との相互作用において発展した個人的独自性の涵養 - の貧困を引き起こす。」として、ジンメルの見解が紹介されていますが、多様な「物」をあれこれ変えながら、自分を装飾してゆくだけの状態が続いては、自分の内面性は何も変わらないし、磨かれない。
「中心不在の自己」という言葉には、そうした皮肉が込められているのかもしれないと思いました。