貨幣を「器」として考える
今日も引き続きミハイ=チクセントミハイ(アメリカの心理学者)による『モノの意味 - 大切な物の心理学』の第2章「物は何のためにあるか」より「地位記号としての物」を読みました。では、一部を引用してみたいと思います。
しかし地位それ自体は一般化された力の表現であり、必ずしもその個人の位置に還元されないシンボルであることを忘れてはならない。高地位者を尊敬する人びとが、いつかは統制されることを拒否するかもしれないし、時にはシンボルを破壊し、ヒエラルキーに反逆するかもしれない。この文脈では、ステイタス・シンボルのもっとも抽象的な形態、つまり貨幣について述べるのが適切だろう。
貨幣に価値と地位を与えるのは、その価値に関する人びとの意見が一致しているからである。小切手やクレジットカードは、単なる紙切れやプラスチックだが、潜在的には何十億ドルもの価値を持っている。その額は目に見えなくても、ドルとしての価値は実在する。それゆえ「貨幣は物ではない」という言い方は、別の意味では真実に聞こえる。お金は物ではない物だ。なぜなら、それは自らを「それ」が望む何物にも変えることができるからである。貨幣はあらゆる物のなかでもっとも社会的な物である。なぜなら、その本来の性質は、伝統的シンボルの持つ性質、つまり交換に対する人びとの同意である。
貨幣が持つシンボルとしての力の多くは、それが何千年ものあいだ、人間の努力のシンボルとして受け入れられてきたという事実に由来する。このようにお金は実際上≪客体化された心的エネルギー≫となっている。労働者は、それ自体からは直接恩恵を受けることのない仕事に注意を集中することでまる一週間働く。労働と引き換えに、彼は賃金を得、それで他の人びとによる労働の産物を買うことができる。彼の賃金を支払った雇い主は、労働者の努力の産物をより多くのお金や物と交換する。言い換えると、貨幣の所有者は他の人びとの客体化された心的エネルギーを統制できる立場にある。それゆえ富は地位を与えることになる。
「貨幣が持つシンボルとしての力の多くは、それが何千年ものあいだ、人間の努力のシンボルとして受け入れられてきたという事実に由来する。このようにお金は実際上≪客体化された心的エネルギー≫となっている。」
この言葉が印象的でした。
日常の中で生じる交換において、現金やクレジットカードなどを当たり前のように使っていると「貨幣とはどのような物なのか?」という問いを考える機会はないかもしれません。
「貨幣に価値と地位を与えるのは、その価値に関する人びとの意見が一致しているからである。」と著者は述べていますが、貨幣は社会に属する全員が「何かといつでも交換できる」と信じているから交換に使える。「交換手段として役立つ」という意味で、機能的な価値です。
今回印象に残った言葉は、貨幣の機能的な部分ではなく、意味的な部分に光を当てています。貨幣は「努力のシンボルである」と。一方で、貨幣が自己増殖する世界では「貨幣は努力のシンボルである」という実感は薄れてゆくということはないでしょうか。
貨幣は、投資すれば「誰かを支援する」という意味合いを持ちますし、消費も「自分が応援したいと思う誰か」の物やサービスと交換することで同様に「支援する」という意味を持ちます。
貨幣はとても抽象的な物ではありますが、だからこそ「具体的にどのような意味を持たせるのか?」というのは、人の想像力や意志次第とも言えます。貨幣も人の想いを受け止める「器」のような物であると捉えることができるような気がしてきました。