「人間の発達」において、生産的であるか否かは重要ではない。
今日も引き続きミハイ=チクセントミハイ(アメリカの心理学者)による『モノの意味 - 大切な物の心理学』の第2章「物は何のためにあるか」より「物の社会化効果」を読みました。では、一部を引用してみたいと思います。
換言すると、行為者の自己を開示するために、行動は物質的意味において生産的である必要はない。重要なことは、それが「自分自身のイメージ」の表現を可能にすることである。そして、その過程において、今のその活動に没頭することで、自己イメージの洗練化が可能になることである。仕事が他のどの活動にも増して、これをよりよく実現するかぎり、仕事は特権的な地位を保持できる - もしそうでなければ、それは人間発達にとって障害となり、他の行動様式がそれに取って代わることになる。
重要なのは、純粋に機会的な行為や仕事またはレジャーの物質的産物ではなく、それらの行為を通じて具体的に実現される意図や目標である。こうした考えは、人間の発達にとって重要な問題は生産手段の所有者でなく≪行為の手段≫を持つ人びとであるという点で、われわれの主題にふさわしい。
手段の生産的な側面に対して行動的な側面を強調するからといって、前者の独自な重要性を無視するつもりはない。物理的生存のための必要性が最初に充足されなければならないという事実を無視するのはもちろん誤った理想主義である。(中略)この議論におけるわれわれの唯一の主張は、生産労働の中に含まれている行為や物が必ずしも社会・心理学的視点から見て最重要なものではなく、非生産的活動や物も自己発達において同様に重要な目的に貢献し得るということである。
「生産労働の中に含まれている行為や物が必ずしも社会・心理学的視点から見て最重要なものではなく、非生産的活動や物も自己発達において同様に重要な目的に貢献し得るということである。」
この言葉が印象的でした。
「生産的活動と非生産的活動」という言葉を目にすると、どことなく非生産的活動に対して「無意味・無駄」という印象を抱いてしまいそうになる自分がいます。その印象の裏には「生産することが善である」という隠れた前提があるのかもしれません。その前提は正しいのでしょうか?
「換言すると、行為者の自己を開示するために、行動は物質的意味において生産的である必要はない。重要なことは、それが「自分自身のイメージ」の表現を可能にすることである。」という著者の言葉は、その隠れた前提を表に導いてくれたような気がします。
ある活動が物質的に生産的でなくても(何かを生み出さなくても)、自分のイメージ(想いとも言えるでしょうか)がそこに投影されること。それこそが人間の発達において重要である。
「人間の発達」という観点において、生産的であるか否かは重要ではない。このメッセージは私に深く響きました。
著者は「物理的生存のための必要性が最初に充足されなければならないという事実を無視するのはもちろん誤った理想主義である」と補足しているように、非生産的活動の前提条件として生産的活動による「物質的充足」が必要です。
自分の日常を振り返って、「自己の発達を促さない活動」に偏ってはいないだろうか、と一歩立ち止まることも重要なのかもしれません。そして、活動を4つに再分類したとき、自己の発達に貢献する活動とは何か、その割合を増やすにはどうすればよいのか、という問いを立ててみる。
1. 生産的で自己の発達に貢献する活動。
2. 非生産的で自己の発達に貢献する活動。
3. 生産的でも自己の発達に貢献しない活動。
4. 非生産的で自己の発達に貢献しない活動。
そんなことを考えていると「個人の発達を支援する社会」という言葉が頭に浮かんできました。具体像は見えてはいませんが、そのような社会像が必要なのではないだろうか。
自己表現、そして(生産の手段ではなく)行為の手段。個人の発達を支援する社会を支えるキーワードです。