「写真」と「写実」と「真実」
今日も引き続きミハイ=チクセントミハイ(アメリカの心理学者)による『モノの意味 - 大切な物の心理学』の第3章「家の中でもっとも大切にしている物」より「写真」を読みました。では、一部を引用してみたいと思います。
一人の女性が、自分の子孫の将来のアイデンティティにとって、写真 - この場合は家族の八ミリ映画 - が持つ重要性を次のようにはっきりと述べている。
何年も前から撮ってきた家族の映像がたくさん残っています。私にとって、それはどんな食器や写真よりも大事な財産です。だって、これは何物にも代えがたいものですから。子どもたちが小さかったときのフィルム、祖父母のフィルム、夫のフィルムというようにいろんなときのものがあります。今これがなくなったら、それに代わるものなんてありえません。三日月形の磁器なら代わりにあります。でも、もう死んでしまった人のフィルムは、何物にも代えがたいものなのです。他のどんなものより大切なのです......もう今はこの世にいない人でも動く映像があれば、五十年たっても子孫にそれを見せれば、「あれがあなたのおじいちゃんとおばあちゃんよ。おじさんとおばさんよ!」って言ってあげられるでしょう - これはすばらしいことです。実際にどんな人だったか、この目で見ることができるのですから。
家の中の他のいかなる物よりも、写真は個人的絆の記憶を保持するという目的にもっともかなっている。感情を喚起する力において、写真をしのぐ物はない。これに匹敵するものは、おそらく最年少世代があげたステレオぐらいだろう。写真は亡くなった親族のリアルな映像であり、亡くなった人とほとんど神秘的とも言えるほど一体化している。世界の大部分の文化において、祖先の記憶は何らかの形で保持されている。
文章を読みながら降りてきた言葉は「百聞は一見に如かず」でした。
今回引用した女性のコメントにある「「あれがあなたのおじいちゃんとおばあちゃんよ。おじさんとおばさんよ!」って言ってあげられるでしょう - これはすばらしいことです。」という言葉。
もし写真が存在しなかったとしたら、同じ時代に生きていない人のことや、その時代のことは、文字や語り、描像などから想像する他ありません。どこまでも想像の域を出なかった世界に輪郭を与えたのが写真。「ありのまま」を写し取る。「写真」の本質は「写実」にあるのではないか、と思います。
話は横道にそれますが、真理という言葉にある「真」を「唯一絶対」と捉えてしまっていたのですが、真とは「ありのまま」と捉えるほうが良いのかもしれない、と思えてきます。「ありのまま」とは、人の感じ方や捉え方によって無限の「ありのまま」がありえるけれど、その無限の中に通底する何かが「真」なのかもしれません。
日頃何気なく「写真」という言葉を使っていますが、あらためて「写真」の二文字を眺めてみると、「真(実)を写す」と書いて写真と読むならば、写実と写真の後ろ二文字を合わせると「真実」となります。
「感情を喚起する力において、写真をしのぐ物はない。」と著者は述べていますが、実際に「目で見る光景」というのは、直接的に感情に訴えかける力があるように思います。
ですが、それは必ずしも「文字や言葉に感情に訴えかける力がない」ということではなく、相互補完的であると思います。写真に写っている人物の顔や雰囲気は写真を見れば分かるかもしれないけれど、そこからだけでは人柄を読み取ることは難しいでしょう。たとえば、時代背景や、その人がどんな歴史を歩んだのか、何が好きで、何に夢中だったのか。
写真の裏側にある「見えない文脈・空気」を言葉や文字が補ってくれる。「見る」と「聞く」が合わさることで、より豊かな意味が醸し出される。
そんなことを思ったのでした。