「流れ」からはじめよ
今日は『日本のデザイン』(著:原研哉)から「北京から眺める」を読みました。これにて本書を読み終えます。
昨日読んだ内容を少し振り返ると「成熟社会と能動性」というテーマが展開されていました。
「成熟した社会においては平衡と均衡への感度が高まる」と著者は述べていました。モノや情報の不均衡を弱めようとする力が働く。相手は知っていて自分は知らないという状況を解消しようとする力が働く。
昔の政治の世界は密室で決まったかもしれないけれど、デジタル技術の発展によって国民が自ら情報を得て、主体的な関わりを持つようになるなど。
コミュニティにおいては「つながり」が可視化されてゆく。オープンになることは不均衡が解消される動きではある。けれども、「ともだち化」は「非ともだち化」を意識させることになる。つながりが生まれることは、つながりを持たない関係との間に境界線を生み出す。不均衡の解消が別の不均衡を生み出してゆく。つながったり、離れたり。
不安定さが循環する中にある安定性。不安定と安定の共存は生命的。それらは対立構造なのではなくて包含関係にあるのではないか。そのようなことを思ったのでした。
さて、今日読んだ範囲では「」というテーマが展開されていましたので、印象に残った箇所を掘り下げていきたいと思います。
「流れ」からはじめよ
著者は日本の建築における美は「障子の開け閉てや立ち居振る舞いという、躾けられた所作」が根幹にあると説きます。
建築家のブルーノ・タウトをして、すでに完成された建築があったと感涙させた桂離宮に限らず、日本の文化は美と誇りを携えていた。襖や障子のたたずまいは、空間の秩序のみならず、身体の秩序、すなわち障子の開け閉てや立ち居振る舞いという、躾けられた所作に呼応して出来上がったものだ。いかに美しく、そしてささやかなる矜持をもって世界に対峙し、居を営むかという精神性が建築の秩序と一対をなしている。
何かを作るとき、その「何か(What)」から意識し始めることが多いと思います。著者の言葉は「どのように(How)」から意識し始めること、行為を起点にすることの可能性を教えてくれました。
「モノ」と「行為」はダイナミック(動的)に、なめらかにつながっている。行為の可能性が意識に立ち上らないのはなぜだろう。行為が時間を伴う「流れ」であるとするならば「流れが先」にあって、「カタチが後」になることもある。水の流れが、周囲の土を削り取って川のカタチを作り上げていくように。
何も思い浮かばなくたっていい。そんなときは自分が流れやすいように自分を変えていけばいい。それが自分を取り巻く環境を、自分の人生のカタチを作っていくんだろうな、と思ったのでした。
Anti(反)というレンズ
著者は「世界の文化は混ぜ合わされて無機質なグレーになり果てるのを嫌う」と述べます。一体どのようなことなのでしょうか。
経済がグローバル化すればするほど、つまり金融や投資の仕組み、ものづくりや流通の仕組みが世界規模で連動すればするほど、他方では文化の個別性や独創性への希求が持ち上がってくる。世界の文化は混ぜ合わされて無機質なグレーになり果てるのを嫌うのだ。これは「世界遺産」が注目されていく価値観と根が同じである。幸福や誇りはマネーとは違う位相にある。自国文化のオリジナリティと、それを未来に向けて磨き上げていく営みが、結果として幸福感や充足感と重なってくるのである。
「世界遺産が注目されていく価値観と根が同じである。幸福や誇りはマネーとは違う位相にある」
この言葉が印象的でした。世界遺産として注目されると、多くの人を引き寄せます。誰からも知られずにひっそりとその面影を残してきた場所が突然の人の流れに侵食されていく。
本来は「後世に残すべきもの」とすべき表明が、いつの間にか削り取る圧力に反転してしまう。独自性や個別性を支えるのは「知られないこと」なのかもしれない。
色々な物事を「Anti-(反)」というレンズで眺めてみるのも面白いかもしれません。