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「ゆっくり急げ」と「反脆さ」

今日は『反脆弱性』(著:ナシーム・ニコラス・タレブ)から「先延ばしの妙 - フェビアン戦略」を読みました。

以前、「情報は反脆い」という話にふれました。

信頼を損なうような事象が起きた時にどのように対処するか。「信頼を回復させよう」と自らに都合のよい情報のみを広めようとする(情報をコントロールする)と、逆に信頼を損なってしまうことがある。一方、耳の痛い話かもしれないけれど、可能なかぎり正確に、ありのままを伝えることで、信頼が回復する道筋が少しずつ見えてくるかもしれない。

反脆さとは「衝撃やストレスにさらされた時、潜在的損失を補ってあり余る潜在的利益をもたらす性質」ですから、「情報は反脆い」ということが実感できます。「取り繕わないほうがよいのはなぜか」といえば「脆くなるから」ということになるでしょうか。

ラテン語には、「ゆっくりと急げ(festina lente)」という表現がある。わざと遅らせる行為を尊重していたのは古代ローマの人々だけではない。中国の思想家である老子は、「無為」という原理を掲げた。これは"何もすることなく成し遂げる"ことを意味する。

ゆっくりと急げ。無為。

遅らせたり、先延ばしにしたら物事が上手く運んでしまった。そんな経験はないでしょうか。それは「自然の成り行きに任せる」ということでもあります。流されているのか、あるいは流れているのか。

「情報は反脆い」という話にも通じるかもしれませんが、反脆いシステムでは時間とともに潜在的利益が生まれてゆく。最初の行動の効果はシステムの中で時間とともに増幅されゆく。長期投資のように一喜一憂することなく、じっと構えてみる。

先延ばしは、人間の自然な意志が、やる気の低下という形で発した声なのだ。だから、先延ばしを治すには、環境や職業を変えるしかない。先延ばしの衝動と闘う必要のない環境や職業を選ぶしかないのだ。そう考えると、先延ばしを治すよりも、先延ばしがリスクに基づく自然主義的な意思決定のひとつとして正しいといえるような生活を送ったほうがいい。だが、こんな当然の結論でさえ理解できる人はほとんどいない。

「先延ばしを治すよりも、先延ばしがリスクに基づく自然主義的な意思決定のひとつとして正しいといえるような生活を送ったほうがいい」とは、はたしてどのようなことなのでしょうか。それは「判断を保留する」ことも自らの選択肢として生活に取り入れることを意味するように思います。

「判断を保留しない」ということは、必ず何かを決めなければならないということ。一方、その場で決めきれないこともあります。その時に「決めることができなかった」ことをポジティブに捉えてみる。

著者は「緊急時の介入の必要性」についても言及していましたので、あらゆる場面において「判断の保留」が望ましいというわけではありませんが、時間と自然の成り行きに任せることが理にかなう場合があるのだと思います。

事実、私はこの本に何を書くか選ぶ時にも、先延ばしを使っている。いつまでたっても書けないようなセクションは削除すべきだ。理由は簡単。自然と書きたくならないような話題について書き、読者をだましても意味がないからだ。この生態学的な推論を用いれば、不合理なのは先延ばしにする人ではなく、環境のほうだ。そして、そういう人々を不合理と呼ぶ心理学者や経済学者たちは、不合理以上なのだ。

「いつまでたっても書けないようなセクションは削除すべきだ。」との著者の言葉が印象的です。機が熟するまで待つ、ということ。

書きたくなるまで待つ。話したくなるまで待つ。会いたくなるまで待つ。食べたくなるまで待つ。練習したくなるまで待つ。読みたくなるまで待つ。

その時間は一見すると「何もしていない」ので無意味のように思えますが、将来的に事を成す際の原動力を生み出すための投資をしているとも言える。

「待つ」という姿勢もまた「反脆さ」の一つの表れなのかもしれません。

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