「描く」という行為で主観と客観をつなぐ
今日も引き続きミハイ=チクセントミハイ(アメリカの心理学者)による『モノの意味 - 大切な物の心理学』の第2章「物は何のためにあるか」より「自己の性質を表現する記号」を読みました。では、一部を引用してみたいと思います。
誰にでもでき、そしておそらくたいていの人が実際にやっていることとして、ぼんやりととらえられた自己の可能性を表現し、それを可能な目標のモデルとして働くようにするために、象徴的な物が使われることがある。この過程は視覚芸術の中にもっとも鮮明な形で見ることができる。多くの画家や彫刻家は、絶えずアイデアや自らの経験した感情に対応する客観的な物を探し求めている。創造的な芸術家とは、それまで決して定式化されたことのない、ある問題に対する確実な視覚的解決策を発見できる人びとである。その解決および創造的問題の定式化においてすら、物は芸術家の思考を刺激し、その発達を促す(Getzels & Csikszentmihalyi, 1976, p.244)。
これが実際にどう働いているのかが、なぜ絵を描くかを説明した若い画家の話の中でうまく語られている。
『私はこれらの物を見るのが好きだ。それが絵を描く理由だ。それは夢を楽しむようなもので、実際私がしていることはそれだ。(中略)それは意識および無意識の要素を含んでいる。≪私は、個人的な意味を持っている物、私にとって意味のある物しか描かない。それによって、私は自分だけの小さな世界を創造する≫。私はいつも自分の絵の中に、ニューヨーク、ネコ、叔父さん。また車、鉄道、あるいは他の移動手段、たとえばローラースケート、住所や電話番号、台所に出現したとかげを描く。かつて私はイタリア旅行を表現するために、船の中に長靴を描いたこともあった。母親、ガールフレンド、自分自身、生命体 - 木や植物......これらは私にとって多くの異なる意味を持ち、私はそれらすべてを享受している。(...)』
≪私は、個人的な意味を持っている物、私にとって意味のある物しか描かない。それによって、私は自分だけの小さな世界を創造する≫。
引用された画家の言葉が印象的でした。
ある「物」を描こうとするとき、その「物」自体は客観的な物かもしれないけれど、「描く」という行為を通じて、自分と物の間に関係性が生まれる。その物は「自分というレンズ」を通して、主観的な「物」に変容している。
読書会のアイスブレイクで「10分間スケッチ」をしています。たとえば、「自分の手」を題材としたことがあります。読書会の参加者が自分の手を思いおもいにスケッチするのです。
「自分の手」というのは不思議なもので、自分の感覚がつながっているのにスケッチする対象として意識すると、どこか客観的な「物」に感じました。
自分の手の皺の入り方、爪の形、影の落ち方。
最初は、客観的な「物」として、手の特徴をありのまま、忠実に再現しようとスケッチしていました。ですが、あるとき一緒に参加しているデザイナーの方のスケッチを拝見してハッとしたのです。
ご自身の手の生命力、力強さを余すことなく引き出しているというのか、その方に見えている世界がそこに映し出されていたのです。その描写は「意味を持った物」として私の目に映りました。
忠実に再現するだけが「描く」ではないというのか、その物の「らしさ」を自分がいかに捉えていくか。観察には客観的な「物」と、自分の「解釈」が入り混じってくるけれど、どこかで客観に寄せてしまう自分がいるな...と気付かされました。
「創造的な芸術家とは、それまで決して定式化されたことのない、ある問題に対する確実な視覚的解決策を発見できる人びとである。その解決および創造的問題の定式化においてすら、物は芸術家の思考を刺激し、その発達を促す。」と著者は述べていますが、自分の中で混沌としていたアイデアや考えが時として「物」を触媒として、突然、有機的に結びついてゆく感覚を覚えることがあります。
ふと「物語」という言葉が降りてきたのですが、「物を語る」というより「物が(自分の代弁者として)語る」という捉え方もできるかもしれない。そのようなことを思いました。