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物事の分かり方と文脈依存性〜解釈と素読〜

意識的であろうと、無意識的であろうと、私たちは日常生活の中で様々な「解釈」をしています。

「解釈」を通して物事の意味を理解しようとしていますが、ふと思うのは「解釈をしない」形での物事の分かり方はあるのだろうか、と。

「解釈する」という営みそのものが、物事の偏った側面のみを切り取ることになりはしないだろうか、全体あるいは「ありのまま」を捉えることの妨げになってはしないだろうか、と。

そんなとき、江戸時代の学習法のひとつである「素読」が思い浮かびます。

素読(そどく)は、漢文の学習方法のひとつで、意味される内容などの解釈をせずに、ただ書かれている文字を声に出して読むことを繰り返し、文章を暗唱できるようにする方法。

Wikipedia

何度も何度も反芻して読み返していると、言葉が体に心に染み込んでゆく。

その後で「もしかすると、こうかもしれない」という瞬間が訪れたとしたらその「こうかもしれない」は、最初から解釈、理解しようとした場合と同じ帰結なのだろうか。

物事の分かり方には「文脈依存性」があるのだとしたら、おそらく帰結は異なっているのではないか。そんな気がするのです。

風は実になんでもとりこむ者である。火が消えるとき、それはまさに風に入る。太陽が西に没するとき、それはまさに風に入る。月が没するとき、それはまさに風に入る。月が没するとき、それはまさに風に入る。水が乾くとき、それはまさに風に入るのだ。風こそ実にこれら一切のものをとりこむ者であるからである。以上が、宇宙に関聯しての論議である。

岩本 裕 編訳『ウパニシャッド』

次は、個体に関聯しての論義である。生気は実になんでもとりこむ者である。人が眠るとき、言語はまさに生気に入る。眼も生気に、耳も生気に、意も生気に入るのだ。生気こそ実にこれら一切のものをとりこむ者であるからである。神々の間では風、諸機能の中では生気、この二つはなんでもとりこむ者である。

岩本 裕 編訳『ウパニシャッド』

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