物事の分かり方と文脈依存性〜解釈と素読〜
意識的であろうと、無意識的であろうと、私たちは日常生活の中で様々な「解釈」をしています。
「解釈」を通して物事の意味を理解しようとしていますが、ふと思うのは「解釈をしない」形での物事の分かり方はあるのだろうか、と。
「解釈する」という営みそのものが、物事の偏った側面のみを切り取ることになりはしないだろうか、全体あるいは「ありのまま」を捉えることの妨げになってはしないだろうか、と。
そんなとき、江戸時代の学習法のひとつである「素読」が思い浮かびます。
何度も何度も反芻して読み返していると、言葉が体に心に染み込んでゆく。
その後で「もしかすると、こうかもしれない」という瞬間が訪れたとしたらその「こうかもしれない」は、最初から解釈、理解しようとした場合と同じ帰結なのだろうか。
物事の分かり方には「文脈依存性」があるのだとしたら、おそらく帰結は異なっているのではないか。そんな気がするのです。
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