
「あたりまえ」の水準
久方ぶりの雨が降る夜。
雨の久しさを感じながら、穏やかな晴天が続いていたことが意識される。
隅々まで整った美しい道を歩くと、ゴミが落ちていたり舗装が崩れている道をしばらく歩いていた事が意識される。
人は多かれ少なかれ「環境に適応する」力を持っていて、それは「慣れる」とも言えるけれど、あるべき(と考えている)姿と現実との乖離による心理的負担を抑えるべく、あるべき姿のほうを現実に合わせてゆくことに近い。
慣れている状態は「定常状態」とも捉えることができるけれど、この「定常状態」の質が重要なように思われる。
その質とは、「美しさ」など何かしらの水準(ストック)における意味と、その状態からの「逸脱」「改善」を促進するのか、それとも抑制するのか、という変化(フロー)における意味とがある。
「あたりまえ」の水準を高く保つ、ということは尊い。
日本に戻ると「衛生的である」という意味での「美しさ」を享受できることも有難い。
前述の如く、個性美が尊重されてきた近世では、必然に独創という事が重い意味をもつ。これが為に斬新を求める風潮が芸術界に泛ぶ。その弊として、奇抜なものが多く現れ、これが創造と混同されがちである。その結果近代芸術はとかく変態なものに流れた。病的な迄に怪奇を示すものが多い。不思議さとか、鋭さとか、烈しさとか、これ等への執着が濃い。音楽で拍子の極めて早いものが増しつつあるのも同じ傾向を示すものと云えよう。それ故、西洋芸術に依って代表される近代美術には、苦しさ痛ましさ、烈しさ暗さ、の現れたものが甚だ多い。非凡さを強いて求める為に起る結果だと思われる。
美には様々のものがあろう。或意味では、どんな性質のものも真実に迫れば、何かの美しさを示すに至ろう。強いもの、鋭いもの、柔かいもの、烈しいもの、その他色々の美があろう。しかし仏教美学の理念として無上の美と見做されるものは、烈しいものではなくして穏化なもの、騒がしいものではなくして静かなもの、異常なものではなくして尋常なもの、特殊なものではなくして正当なもの、争うものではなくして素直なもの、これを一言で尽せば「平常美」であって、異常美ではない。平常美を又「無事美」と呼んでもよい。無事は有事に対する言葉であるが、真実は凡ゆる相対性を超えたものである。
