編集・情報・メディア
今日も引き続き『匠の流儀 - 経済と技能のあいだ』(編著:松岡正剛)より「第2章 日本の経済文化の本来と将来3. 編集的日本像」から「編集とは何か」を読みました。それでは一部を引用します。
私は一〇年間ほど「遊」をつくりましたが、だんだん「編集」というものをエンジニアリングとして、工学として捉えたいと思うようになりました。なぜならば、いまの私たちは生身ではなく、たくさんのメディアに取り巻かれていますし、情報化されたものもメディアを通して受け取る以外になくなっているわけですね。つまり、「情報」というものを扱おうとすれば、それらがどのようにメディア化されたかということを含んで見ていく方法、そのための「学」が必要になると考えたのです。
やがてそれを「編集工学」と呼ぶようになりました。メディアやツールとともに、サブジェクトを考えるような思考活動に入ろうと思い始めたわけです。つまり、文字とか紙とか鉛筆とかタイプライターとか、写真とか映画とか録音機とか、ジャガード織物機とかIBMのコンピュータとかワンチップコンピュータとかが、どうやって生まれたのか。そのことといっしょに、それによってどんな情報が生み出されたのかを考えていこうということです。
「情報がメディア化される」とはどのようなことなのでしょうか。この問いが成り立つならば、「メディア化されていない情報」というものが存在するのでしょうか。そもそも「情報」とは何なのでしょうか。
著者が考える「編集」について簡単に振り返ると「情報がカテゴライズされる以前の、言葉やイメージの母型にあたるものを新たにつなげていくこと」でした。
ということは、まず分類(カテゴライズ)される前の「情報」、分母的情報が存在する。それは語源的と言えるかもしれません。そして、それらが様々な文脈や基準の中で分類・細分化されてゆく中で、分子的情報(派生的な情報)へと変容していく。
もし分子的情報にしか接することがなければ、異なるものが元をたどれば、じつは同じ(分母的情報)ということを意識するのはとても難しそうです。ですが、分母的情報にさかのぼることで、「一見異なるモノゴトを束ねる」というのは、「概念を操作可能な形に細分化・表現し、つなぎ合わせる」を基礎とする論理的思考とは対極的なように思います。何と表現したらよいのかわかりませんが「包摂的思考」とでもいうのでしょうか。
「情報がメディア化される」という話に戻ると、メディア化された情報というのは、たとえば文字や映像があげられるでしょうか。文字や映像として、自分の中にある情報を自分の外に出す。そして、外に出された文字や映像は他者と共有される。
「いまの私たちは生身ではなく、たくさんのメディアに取り巻かれていますし、情報化されたものもメディアを通して受け取る以外になくなっている」という著者の言葉を手掛かりにすると、メディアを介さずに「生身の身体」で情報を生み出したり・受け取っている、ということも忘れてはいけないのでしょう。
たとえば、表情や動作、身体感覚など。相手の表情や声のトーンなどから、「今日は元気そうだな」とか「何か悩んでいるのかな」と察することができるとしたら、それこそ表情や声は貴重な情報です。
普段はあまり意識していませんが、メディア化された情報があふれる昨今だからこそ「メディアを介さない情報」に意識を向けてゆく必要があると思います。
また、メディア化された情報を否定するものではなく、それぞれのメディアの特性を理解した上で「メディア化された情報」と上手につきあってゆくことが求められているように思いました。