水鏡の向こう側の風景〜能動的に探る中に浮かび上がる美しさ〜
「水鏡の向こう側」
水鏡に映る風景はどこか幻想的で、眺めているうちに自分が水鏡の向こう側へ溶け込んでゆくように感じられることがある。
水鏡の「こちら側」に実在する風景の鮮明な美しさが、水鏡の「向こう側」に映り込むことで「あわい」や「ゆらぎ」を伴い、自分から美しさを探りにゆく、あるいは歩みよってゆく余白が生まれるように思われる。
そう思うと、本来的に人に内在している「想像力」が生き生きと働くためには、想像を働かせる対象に多かれ少なかれ「不鮮明さ」が残っているほうがむしろ望ましいのかもしれない。
と記していると、「そもそも物事が鮮明であるとはどういうことだろう?」という問いが降りてくるのだから不思議なものである。
水鏡の「こちら側」に実在する風景の鮮明な美しさとは「受動的に受け取られている美しさ」であるとすれば、もしかすると「美しさの核心」にふれておらず、ただ「鮮明であると感じているだけ」なのかもしれない。