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水鏡の向こう側の風景〜能動的に探る中に浮かび上がる美しさ〜

「水鏡の向こう側」

水鏡に映る風景はどこか幻想的で、眺めているうちに自分が水鏡の向こう側へ溶け込んでゆくように感じられることがある。

水鏡の「こちら側」に実在する風景の鮮明な美しさが、水鏡の「向こう側」に映り込むことで「あわい」「ゆらぎ」を伴い、自分から美しさを探りにゆく、あるいは歩みよってゆく余白が生まれるように思われる。

そう思うと、本来的に人に内在している「想像力」が生き生きと働くためには、想像を働かせる対象に多かれ少なかれ「不鮮明さ」が残っているほうがむしろ望ましいのかもしれない。

と記していると、「そもそも物事が鮮明であるとはどういうことだろう?」という問いが降りてくるのだから不思議なものである。

水鏡の「こちら側」に実在する風景の鮮明な美しさとは「受動的に受け取られている美しさ」であるとすれば、もしかすると「美しさの核心」にふれておらず、ただ「鮮明であると感じているだけ」なのかもしれない。

花や月を美しく反映する水がある。アルハンブラのミルトルズ・コートの水面は、赤みがかったコマレスの塔と大使の間へ通じるアーチ状のコロネードの姿を、静かに、美しく反映していた。(中略)平安文学には、物を反映して、際立たせる水の描写が実に多く出てくる。なかでも水は、藤や山吹、あるいは白菊を映し出すものであった。「みぎはなる松にかくれる藤の花かげさえふかくおもほゆるかな」(『宇津保物語』)。

鈴木信宏『水空間の演出』

また、秋の池には、月は無くてはならぬものであった。『宇津保物語』は、「今日の饗宴に貴殿の琴がなかったなら、鶯の鳴かぬ春の山、月の浮かばぬ秋の池というもの」と記している。『作庭記』には、「滝をば、たよりを求めても、月に向ふべきなり。落ちる水に影を宿さしむべき故なり。」とあり、滝面にさえも、月を映すべく心を配っている。事実、そのような滝があったようで、『栄花物語』は、「岩間より流るる水に月影のうつれるさえぞさやけかりける」と歌っている。

鈴木信宏『水空間の演出』

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