将来の自己像をはぐくむことができなければ、人間になれない?
今日はミハイ=チクセントミハイ氏(アメリカの心理学者)による『モノの意味 - 大切な物の心理学』の第1章「人間と物」から、昨日に引き続き「心的活動パターンとしての人間」を読み進めています。
人と物の関係性を考えてゆく前提として「そもそも人とは?」「そもそも物とは?」を定義することから始まっています。では、一部を引用してみたいと思います。
注意が仕事や対象の中に濃縮されるという事実は、心的エネルギーの奪われる可能性を意味する。たとえば、もしある農夫が畑の耕作に生涯のかなりの年月を捧げながら、その畑を奪われたとすれば、農夫は自分のエネルギーが濃縮された対象を失うことになる。もうひとつの例は疎外された労働である。マルクスが述べたように、賃金労働者は彼らの生活の一定部分を労働に投資する。工場で働いているあいだ、彼らの行為や経験の選択肢は急激に縮小させられる。別の生き方を喪失することになるからである。
労働者が目前にある仕事に注意を集中させるからこそ、製品が生まれる。しかし、労働者は生産物を「所有」もできなければ、それが何になるのか、どのように作られるのか、誰にいくらで売れるのかについてはほとんど選択権を持たない。しかも労働者が得る報酬は、いつも仕事に投資した活動の価値を下回る。差額は余剰価値 - つまり雇用者が労働者の生活エネルギーの充当分から得た利益である。
これまでの議論から、私たちは次のように結論できよう。人間性は、自己の心的エネルギーを自由に配分できる能力にかかっている。個人は、もし自分の目標、言い換えると将来の自己像をはぐくむことができなければ、人間になれない。(中略)個人にとって経験の最適状態は、複数の意図が相互に葛藤状態にないことである。(中略)この経験はやりがいのある楽しいものとみなされる。先行研究において、この生き生きとした行為と内的秩序状態は「フロー」経験として詳しくふれられている(Csikszentmihalyi, 1975k 1976, 1978 a b)。
「人間性は、自己の心的エネルギーを自由に配分できる能力にかかっている。個人は、もし自分の目標、言い換えると将来の自己像をはぐくむことができなければ、人間になれない。」
この言葉が印象的でした。
人間と物との関係が意味あるものとなるためには、能動的解釈過程としての「涵養」が重要であると、著者は最初に結論づけています。その上で人間と物を定義することから始めているのでした。
もし「そもそも人間とは何か?」と問われたら、どのように答えるでしょうか。
生き物?
どんな生き物?
言葉で思考したりコミュニケーションする生き物?
生物学的な要素を網羅すれば「人間」の定義として十分なのか、疑問が残るところではあります。「将来の自己像をはぐくむことができなければ、人間になれない」との著者の言葉は、ある意味で「人間の条件」を述べていると思えました。
ここで言葉にもう少し注目すると「将来の自己像を具体化・明確化する」とは述べておらず、「はぐくむ」と表現しています。「はぐくむ」という言葉は現時点では明確ではなくても、何かの営みを通して具体化・明確化されてゆく可能性を含むものです。
ですから「将来の自己像なんてない」と思っていても、そのことをもって「人間にはなれない」とは述べていないことには留意が必要です。
「たとえば、もしある農夫が畑の耕作に生涯のかなりの年月を捧げながら、その畑を奪われたとすれば、農夫は自分のエネルギーが濃縮された対象を失うことになる」あるいは「しかし、労働者は生産物を「所有」もできなければ、それが何になるのか、どのように作られるのか、誰にいくらで売れるのかについてはほとんど選択権を持たない。」として、著者は心的エネルギーが失われる事例を挙げています。
自分が何かに心血を注ぐ。その過程を通して様々な気づきを得る。嬉しいもあれば辛いこともあるかもしれませんが、それらの総体として結実した対象が「どうすれば自分にとって意味あるものになるのか?」という問いを考えることに意味があるような気がします。
心血を注いだ対象が自分に帰属する。対象が誰のためになるのか分かる。心血を注ぐというのは、前回でてきた「選択的関心」を向けることでもあり、だからこそ「活きた経験」になるとすれば、逆に「関心を奪う何か」を自分の周りから少しでも取り除いていくことが大事なのかもしれません。