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「物」が人の内面を引き出してゆく

今日はミハイ=チクセントミハイ(アメリカの心理学者)による『モノの意味 - 大切な物の心理学』の第2章「物は何のためにあるか」より「自己の性質を表現する記号」を読みました。では、一部を引用してみたいと思います。

ほとんどすべての文化において、物はその所有者の力を表現するために選ばれている。他のいかなる特性にも増して象徴的に表現されるものは、他者への影響力、つまり、その人の潜在的エネルギーである。
男性の戦闘用のヤリ(mut)は、いつも彼の手の中にあって、ほとんど彼の一部と化している...彼は飽きもせずヤリを研いだり磨いたりしている。なぜなら、ヌアー族は、自分のヤリを誇りに思っているからである......ある意味で、それは生き物のようでもある。なぜなら、ヤリは、その人の力や活力、徳をあらわす拡張部分であり、外的シンボルであり、自己の投影であるからだ(Evans-Pritchard, 1956, p.233)
この記述は、ヤリはヌアー族(Nuer)にとって、ひとつのまとまった内的欲求や欲望をあらわす概念的な記号以上のもであることを示している。(中略)ヤリは、その客観的特性によって、誰に対してもその所有者や同一文化内の他の構成員たちが熱望するような個人的特性 - 力、スピード、能力、永続性、尊敬を集め自己環境を統制する能力 - を強調し、誇示することができる。
おそらく、ヤリの - あるいは他の表出物などんな物の場合でも - この象徴的意味は、単にすでに存在している現実を反映するだけではない。それはまた、別の現実を引き起こす手助けをする。重いヤリを持ちながらスーダンの太陽に焼かれた高原を横切るヌアー族は、特に体力に恵まれているわけではないかもしれない。しかし、その武器は彼にない力を伝えている。ヤリを掲げることによって、彼は柄にダイナミックなエネルギーを《感じる》。

しかし、その武器は彼にない力を伝えている。ヤリを掲げることによって、彼は柄にダイナミックなエネルギーを《感じる》。

この言葉が印象的でした。

物を手にすることで、物を通じて自分の奥底から何かが引き出されるような感覚を覚えたこと、誰しもがあるのではないでしょうか。

本書では事例としてヤリ(槍)が取り上げられているのでピンとこないかもしれません。何か手にしていると、自分が拡がってゆくというか、内側からエネルギーが湧き上がってくる物があるのではないでしょうか。

たとえば、私は楽器(サックス)を演奏しますが、楽器は自分の内側から何かを引き出してくれる触媒のような物のように感じることがあります。

誰かが楽器を演奏している時、音を奏でている様子を眺めていると「あぁ...この人にはこんな一面があるんだな」と気付く瞬間があります。楽器と楽曲が一体となって、人の内面を引き出している。

同じ楽曲を演奏していても、無限の可能性がある音色や表現の組み合わせの中に自然とその人らしさというか、人それぞれの色がにじみ出てくるように思います。

「ほとんどすべての文化において、物はその所有者の力を表現するために選ばれている。他のいかなる特性にも増して象徴的に表現されるものは、他者への影響力、つまり、その人の潜在的エネルギーである。」という著者の言葉がありますが、そもそも「力」とは何でしょうか。

力のつく言葉はいくつもあります。影響力、表現力、身体能力、学力...。

人それぞれが固有の力を持っているとしたら、「自分は(その人は)どんな物に触れている時に力を感じるだろうか?」という問いを考えてみると良いのかもしれません。

人は様々な力を秘めていて、「物」によって引き出される力が異なる。人の個性を考える時、その人自身に注目することもあると思いますが、人と物の組み合わせとして捉えることもまた意味があるように思います。

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