芸術品の意味(向こう側にいる作者と対話する)
今日はミハイ=チクセントミハイ(アメリカの心理学者)による『モノの意味 - 大切な物の心理学』の第3章「家の中でもっとも大切にしている物」より「視覚芸術品」を読みました。では、一部を引用してみたいと思います。
視覚芸術品をあげた人は二六パーセントにのぼり、そのような物が多数(百三六件、全体の八パーセント)におよんだ一つの理由は、われわれがこのカテゴリーに含まれる物の定義を広く規定したからである。それは、原画や本物の芸術作品である必要はなく、ピカソの原画から、もっとも安い「最後の晩餐」の複製までの、写真以外のどんな二次元の表現をも含む - もちろん、回答者がその絵を特別なものだと言った場合に限られる。さらに、子どもなど家族の誰かが描いた絵もこのカテゴリーに含まれる。
家具が今日のように重要な持ち物として中心的な地位を占めるようになったのは、前述したように、つい最近のことである。同じことが、「視覚芸術品」カテゴリーに含まれる物にさらによく当てはまる。西洋の家庭で装飾のために二次元の作品を使い、その住人にふさわしい意味を表現するようになったのもルネサンスにおける中流階級の商業革命の結果であった(Hauser, 1951)。それ以前は、いくつかの例外をのぞいて、支配者や聖職者だけが絵画を所有していた。
上層中流階級の人は一般的に、より多くの絵画そして確かにより多くの本物の絵画を持つ余裕があるけれども、これらの違いをもたらす第一の理由は経済的なものではない。「視覚芸術」品にも高くない物はたくさんあり、下流階級の回答者がしばしばカメラやステレオのような、より高価な物をあげることもある。おそらく下流文化はまだ絵画表現の芸術的意味に対してあまり関心がないのだろう。絵画は、宗教信仰や貴族の家系を表現するのに役立つ教会や宮殿でその正当性を獲得し、豊かさや感受性のシンボルとして中産階級の家庭に浸透してきた。
1977年、シカゴ都市部に住む82家族に対して行われた「人と物との関係性」に関するインタビューの中で、「家具」の次に多くの人が特別な物に挙げたのは「視覚芸術品」でした。
今でこ、絵画などの視覚芸術品は日常の中でごく身近に存在し、生活に彩りを与えていますが、そのような地位を獲得するまでは一部の地位の高い人が所有していた事実に触れると「自分は恵まれた時代に生きているのだな」と思ってしまいます。
たとえ「本物」を所有していなくても、芸術品に触れることで、ほんの少し世界が新鮮に感じられますし、作品の向こう側にいる作者とつながる感覚をおぼえることもあります。
視覚芸術品は「それ自体」の意味もあれば「物」を介した作者との関係性に埋め込まれた意味もあるんだなと、この文章を書きながら思っています。
「おそらく下流文化はまだ絵画表現の芸術的意味に対してあまり関心がないのだろう」という著者の言葉には、ちょっとした違和感を覚えます。つまり芸術品を所有していることと、関心の有無は切り離して考えるべきではないかと。
著者が言うように、本当に関心がないのか分かりませんが、芸術には解釈の自由がある、つまり誰にでも開かれていると思いますし、たとえ上手く言語的に解釈を表現できないとしても、心が動いたのであれば、結果的に関心があったと言えるように思います。