希少性の判断に合意は必要だろうか?

今日はミハイ=チクセントミハイ(アメリカの心理学者)による『モノの意味 - 大切な物の心理学』の第2章「物は何のためにあるか」より「地位記号としての物」を読みました。では、一部を引用してみたいと思います。

ある特定の物が地位の象徴になるためには多くの方法がある。ステイタス・シンボルとしての資格を持つためには、たとえばそれは≪まれにしか存在しない≫ものでなければならない。希少性は物を手に入れることが困難なこと、したがってその物を作ったり、見つけたりするのに大量の心的活動を投資しなければならない。そのような物は、次には - もし、周りの人びとがその希少性を認識していれば - 「尊敬され」、その所有者は間接的に他者の心的エネルギーへの統制力を獲得することになる。
≪高価な≫物も基本的には同じように機能する。実際、希少性と対価はほぼ同義である。なぜなら、どちらもある物を作るのに要する注意の量を指すことばだからである。物の≪年代≫もその地位を高める。(中略)しかし平凡な物でも、偶然保管された場合は年月とともに希少なものとなる。このように骨董品は、希少性そして結局は費用という基準によって地位を獲得する。
結局、物は単純に≪地位保持者の注意を引きつけること≫で地位を獲得する。高地位にある人びとは他者の注意を統制し、それゆえ彼ら自身の目標は平均的な人びとの目標よりもいっそう大きな影響力を行使することになる。(中略)同様に、「反地位的」シンボルも、その持ち主の地位慣習との関係について、何かを語りうる。注目度の高い人びとによって何らかの注意を与えられると、その物自体が注意を引くようになる。コマーシャルや広告で、有名人に製品の宣伝をさせるのは明らかにこの一般原理の応用である。

「注目度の高い人びとによって何らかの注意を与えられると、その物自体が注意を引くようになる。コマーシャルや広告で、有名人に製品の宣伝をさせるのは明らかにこの一般原理の応用である。」

この言葉が印象的でした。

物が何かの地位を体現する、つまり物が「ステイタス・シンボル」となるのは、どのような時だろうか。どのような原理が働いているのだろうか。

本書を読みながら、あらためてそうした問いと向き合う機会を頂きました。

そもそも「地位とは何か?」という問いから考えてみたいと思います。まず地位という言葉を広辞苑で引くと以下のように定義されていました。

1. くらい。身分。
2. 立場。
3. 存在する場所。位置。
4. 土地のありさま。地勢。

俗に言う地位は「身分や立場」の意味で使うことが多いように思いますが、地位を「身分や立場」と置き換えて考えてみると、地位は個人間の「差異」に端を発すると言えるように思います。そして、その「差異」を強調・固定化・可視化する手段として「物」があると考えることができそうです。

「差異」が他者から憧れや尊敬を集め、注意を引くものであれば「地位」に昇華してゆく。

では、その「差異」は何によって生み出されるのでしょうか。色々とあると思います。

たとえば「高級品」であれば、その物を所有するための対価を支払う能力の差異に由来します。「非売品」であれば、その物にアクセスする機会の差異に由来します。

骨董品は作られてから経過した年月に比例して、存在確率が低下していく(つまり希少性が高まります)。そして、有識者によって鑑定され、ルーツなどが明らかとなると、その情報が複数の人に共有される。

その情報が各人の中で意味のあるものとなれば「物」は「物理的な希少性」だけでなく「社会的な希少性」も獲得していくことになります。

一方、「たとえばそれは≪まれにしか存在しない≫ものでなければならない。希少性は物を手に入れることが困難なこと、したがってその物を作ったり、見つけたりするのに大量の心的活動を投資しなければならない。」と著者は述べていますが、その「物」にどれだけの心的活動が投資されているのだろうか、と思いを馳せること、日常生活の中でどれだけあるでしょうか。

「物理的な希少性」「社会的な希少性」だけでなく「個人の中での希少性」という尺度が存在してもいいように思います。「他者が評価しているからよい」ということではなく、自分の審美眼を通して、自分としての希少性を認める。

「希少性」という尺度は、社会の中での合意形成を必ずしも必要としないのではないか。もしそうならば「物」が表象する地位に対して、どこか虚しさを感じてしまうのでした。

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