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開かれた社会と対話

今日は『わかりあえないことから- コミュニケーション能力とは何か-』(著:平田オリザ)より「第5章:「対話」の言葉をつくる」から「「対話」のない国家」を読みました。

本節の主題は「国家」です。

国家と対話

私たちが日常生活で用いている日本語(近代日本語)は明治初期に先人たちが約一〇年の歳月をかけて生み出したことは先日ふれたとおりです。当時の欧米諸国における最先端の知を吸収する。そのため、帝国大学の設立当初の授業はすべて英語やドイツ語などの外国語で行われていました。

それらの概念を議論するため、対応する日本語を生み出していったのです。その結果として、私たちは家庭や学校などを通して言葉を身につけ、日常の中で意思疎通をはかることができています。先人たちの恩恵にあずかっています。

しかし、著者は近代日本語の大きな積み残しの一つとして「対話の言葉」が不足していることをあげていたのでした。相手との対等な関係を保ちがなら相手を褒める言葉。言葉は関係なくして生まれない。関係あるところに言葉が生まれます。

では、なぜ近代日本語では対話の言葉が不足しているのか。先人たちはなぜ積み残してしまったのか。その点について著者は次のように述べます。

 二〇世紀、日本、ドイツ、イタリアが、なぜあの無謀な戦争を引き起こしたのか。原因や理由は様々にあるだろう。(中略)明治維新が一八六八年。イタリア半島がほぼ統一されるのが一八七〇年。ビスマルクの初代ドイツ帝国宰相就任は一八七一年。英仏米を除けば、主要国の国民国家としての歴史は、実は意外なほどに浅い。後発の国民国家は、すでに答えの出ている近代国家のシステムを、合理的に、エッセンスだけを模倣しようとする。そこでは、無駄は排除され、スピードだけが要求される。

日本は後発の国民国家として、先をゆく近代国家に早く追いつこうとした。そうした過程のなかで対話は求められていたのでしょうか。

対話という営みは、価値観の異なる人同士が干渉しあい、新しい価値観に触れて自らを変化させてゆく営みです。そうしたプロセスは時には自己否定を伴い、相応の時間が必要かもしれません。「時間とともに自分の中で新たな価値観が熟成、発酵してゆく営み」とも言えるかもしれません。

しかし「近代国家にすばやく追いつくこと」が目的であれば、価値観を変容するというよりも、明確な目的達成に向けて国民の価値観をそろえることが時代の要請だったのでしょう。対話をする必然性はなかったことがうかがえます。

開かれた世界と対話

一方、高度経済成長期を経て物質的な豊かさを得た日本です。さらなる経済成長がうたわれる一方、少子高齢化が不可避な中で「社会の成熟」について問われているように思います。

昨日は政治に対話が欠如していること。そして、小選挙区制度は対話を要求する制度であることにふれました。そこから「成熟社会とは対話が足場となる社会ではないか」という考えが芽生えたのでした。

著者は「対話とリーダーシップ」について以下のように述べています。

 冗長性が高く、面倒で、時間のかかる「対話」の言葉の生成は、当然のように置き去りにされた。強いリーダーシップを持った為政者にとっては、「対話」は無駄であり、また脅威でさえあるからだ。そうして強い国家、強い軍隊はできたかもしれないが、その結果、異なる価値観や文化を摺りあわせる知的体力が国民の間に醸成されることはなく、やがてそれがファシズムの台頭を招いた。

そもそも、リーダーとはどのような人のことでしょうか?誰かを引っ張る人でしょうか?

私は「リーダーの条件は、支えてくれる人(フォロワー)がいること」だと思っています。自分が引っ張る相手ではなく、自分を後押ししてくれる人がいること。自分が誰かを引っ張らなくても、後押ししてくれる人がいれば、誰しもがリーダーなのだと思います。

この「支えてくれる人がいること」と「対話」が私の中で結びつきました。

ひとえに「政治は政治のための政治ではない」ということに尽きるのではないかと思います。つまり「政治の世界が閉じていてはならない」ということ。逆に言えば「政治の世界が国民に開かれていること」が成熟社会に必要なのではないでしょうか。

「世界が開かれている」とは、「社会が開かれている」とは人が呼吸をして体内に新鮮な酸素を取り入れ、二酸化炭素を吐き出すように、たえず周辺環境とのやりとりが繰り返し行われ続けること。新しいものを取り入れ、巡らせ、健やかさを保つこと。それはまさしく、私たち国民が自ら選んだ政治家と国民の間の対話の絵姿と重なるように思うのです。

このように考えてみると「健やかな社会」というものがどのようなものか。正しいか否かはともかく、私たち一人ひとりが自分自身で考え、その考えを対話という営みを通じて磨いてゆく。そして実践してゆく。

そのような日常が身近になってゆくことが成熟社会の一つの形なのかもしれない、と思うのでした。

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