多数派=優、少数派=劣ではない
今日は『わかりあえないことから- コミュニケーション能力とは何か-』(著:平田オリザ)より第6章:コンテクストの「ずれ」から「少数派であるという認識」を読みました。
本節の主題は「少数派、相対化」です。
昨日は「初対面の人に話しかけるか?」という問いに対する反応、その背景が文化、社会によって異なることを学びました。アメリカなどの多民族国家は初対面の人に話しかける人の割合が五割を超え、それは「あなたに対する悪意はありません」という態度の表れであると紹介されていました。
つまり、コミュニケーションにおける意味の生成は文化・社会の中に埋め込まれている、つまり、文化・社会が異なればメッセージの意味の取り出し方(解釈)も異なるということ。だからこそ、コミュニケーションのあり方は自然に多様となり、また相対的なものであると再認識しました。
コミュニケーションにおける「しなやかさ」
文化や社会が異なれば、コミュニケーションのあり方も変わる。文化や社会もグラデーションのように様々な中で、その文化を共有する人が多い場合もあれば少ない場合もある。誰が意図するわけでもなく、自然と多数派と少数派に分かれること、分かれていることもあります。
文化が異なる人同士がコミュニケーションを取る中で、しばしば起き得るのは「少数派は多数派に合わせなければならないのか?」という問いだと思います。その点に関連して著者は次のように述べています。
というわけで、私たちは国際社会の中で、少なくとも少数派であるという自覚を持つ必要がある。またそこで勝負をするなら、多数派にあわせていかなければならない局面が出てくることも間違いない。ただそれは、多数派のコミュニケーションをマナーとして学べばいいのだと、これも学生たちには繰り返し伝えている。魂を売り渡すわけではない。相手に同化するわけでもない。
国連推計によれば、足下での世界人口に占める日本人の割合は1.6%とのことです。「分かちあう文化」「察しあう文化」というハイコンテキストな文化を有する意味でも日本は少数派です。
著者は演劇家としてデビューした頃、評論家から「自己宣伝がうまい」と批判されたことに違和感を覚えたそうです。そして、自作の芸術について語ることが要求されるヨーロッパで仕事をするようになってから、その批判自体が日本特有のものであると相対化することができたとのこと。
あくまでも多数派のコミュニケーションをマナーとして学ぶのであり、相手に同化するのではない。軸足は自分の側に残したまま、相手との関わりあいの仕方を変えてゆく。
コミュニケーションには「しなやかさ」が必要だということ。多数派も少数派も関係ない。しかし「多数」であるということは、それだけで無言の圧力として作用するということを忘れないように。
多数=優、少数=劣、ではない
「少数派の強み」について、著者は次のように述べています。
ここで学生たちに繰り返し強調するのは、第四章でも触れたように、「少数派だからダメだと言っているわけではない」という点だ。それは優劣ではない。また、少数派の強みもある。たとえば私が生きている芸術の世界では、少数であることは強みでもある。私の戯曲が毎年フランスで上演をしてもらえるのは、自分が日本文化を背負っているからだと私は認識している。パリには世界中から芸術家が集まってくる。その中で私に仕事の依頼が来るのは、私が彼らの持っていないものを持っていて、しかもそれを彼らの文脈で説明できるからだろう。もしそうでないならば、「フランス語もできない、英語もへたなダメな奴」という扱いで終わっていたはずだ。
著者の言葉は「希少であるとはどういうことか?」という問いを投げかけているように思います。
そして「彼らの持っていないものを持っていて、彼らの文脈で説明できる」が鍵であるように思います。ここでの希少性とは、物質的な希少性ではなくて、「自分という存在が相手にとって希少(貴重)であるかどうか」ということです。
相手から「希少な存在」と認識されるには、相手にゆだねるだけではなく、自分はどのような人なのか、何を大切にしているのかを伝える必要がある、ということ。「伝える」ではなく「伝わる」ということ。
何を伝えるか、どのように伝えるか。伝えているけれど伝わらない。相手が属する文脈・文化に埋め込まれたコミュニケーションのあり方を学ぶこと。
多数派のコミュニケーションのあり方を真似たからといって、相手が優れていて自分が劣っているということにはならない。ふと、「学ぶ」の原型は「まねぶ(真似る)」であることを思い出しました。
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