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「縁を紡ぐこと」、是即ち「束になる流れ」〜自己を超えた力によって引き出され、そして撚り合わさってゆく〜

「縁を紡ぐということ」

「縁を紡ぐ」と言われるけれど、「紡ぐ」とは一体どういうことだろう。

紡ぐという言葉の語源を辿ると、名詞の「つむ(錘)」が動詞化した言葉のようである。

糸を紡ぐ機械の付属品である錘には、糸の原料を錘にかけて繊維を引き出す役割があることからすると、紡ぐは「引き出す」「撚り合わせる」という二つの意味の重なりを持っている。

そして、「引き出す」のは自分自身の力で引き出すというよりも、外部の力(錘)」を活かすということからすれば、「内側から引き出されてゆく」と捉えるほうが理にかなっているのかもしれない。

「縁」という言葉は、どこか神秘性、偶然性を伴っているように感じられるのだけれど、それは自己を超えたところ(錘)から導かれているような感覚が根付いていることを直感しているのかもしれない。

引き出され、そして撚り合わさってゆく過程は、すなわち「束になる流れ」のようにも思える。

「縁を感じる」というとき、「何かと一つになってゆく」感覚を覚えているのかもしれない。

このような考からも自分はマッハの説により多く共鳴する者である。すなわち吾人に直接与えられる実在はすなわち吾人の感覚である、いわゆる外界と自身の身体と精神との間に起る現象である。このような単純な感覚が記憶や聯想によって結合されて経験になる。これらの経験を綜合して知識とし知識を綜合して方則を作るまでには種々な抽象的概念を構成しそれを道具立てとして科学を組み立てていくものである。

寺田寅彦『万華鏡』

この道具になる概念は必しも先験的な必然的なものでなくてもよい。以上のごとく科学を組み立て、知識の整理をするに最も便利なものを選べばよいのである。その便不便は人間の便不便である、すなわち思考の節約という事が選択の基準になるのである。

寺田寅彦『万華鏡』

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