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「出汁がきいてるね」から思うこと
今日は『日本のデザイン』(著:原研哉)から「序 - 美意識は資源である」を読みました。
昨日読んだ内容を少し振り返ると、「欲望のエデュケーション」という話にふれました。
「欲望はルーズなニーズとして育てられてはならない」「けじめや始末をつけるのが文化であり美意識」という著者の言葉は「私たちは何かを選択するとき、自分のモノサシで吟味しているだろうか」と問いかけているように感じました。
また、「千数百年という時間の中で醸成されてきた日本の感受性を、このまま希薄化させるのではなく、むしろ未来において取り戻していくことが、この国の可能性と誇りを保持していく上で有効ではないか」という著者の言葉を受けて「日本の感受性とは何だろう?」という問いが芽生えました。
日本の感受性を知らないのか、あるいは知っているかもしれないけれど意識できていないだけなのか。本書を読み進めながら、自分の知識や経験に重ねあわせていこうと思います。
さて、今回読んだ範囲では「日本の美意識」というテーマが展開されていました。
繊細・丁寧・緻密・簡潔
著者は「日本という国に通底するモノ」について、パイロットの言葉を引きながら次のように述べています。
「いま、上空から眺めて一番きれいな夜景は東京」
世界の夜景を機上から眺め続けている人々の意見だけに説得力がある。まさに我が意を得た思いがした。世界広しといえども、東京ほど広大な広がりを持つ都市はないし、信頼感あるひとつひとつの灯りがそういう規模で結集しているわけである。このあたりに僕はひとつの確信を持つ。掃除をする人も、工事をする人も、料理をする人も、すべて丁寧に篤実に仕事をしている。あえて言葉にするなら「繊細」「丁寧」「緻密」「簡潔」。そんな価値観が根底にある。日本とはこういう国である。
著者は、海外から帰国して成田空港に降り立つと「丁寧さ」に意識が向くのだと言います。床が隅々まで丁寧に掃除されている。タイルがピカピカに磨かれている。シミも最善を尽くして取り除こうとした跡が感じられる。転げまわっても服はたいして汚れないのではないか。そう感じるのだそうです。
掃除の文脈では、お手洗いを利用するときにも日本らしさを感じます。床も洗面台もピカピカに磨かれ、トイレットペーパーはキレイに折りたたまれ、気持ちのよさを感じます。
そのような時間や空間を丁寧に整えてくださっている方がいるということ。無意識のうちに受け取っている「心地よさ」がどれだけ生活を豊かなものにしてくれているのか。何もしなければ必然的に向かう乱雑さにあらがって、整える力。
「繊細・丁寧・緻密・簡潔」という価値観が日本の根底にある。そのことに気づくためには、何か新しいことを始めるのではなく、身近な物事を新鮮に捉える感性を育む必要があるのかもしれません。
「出汁がきいてるね」から思うこと
著者は「日本という国を繁栄させてきた感覚資源はお金で買うことはできない」と述べます。
幸いなことに、日本には天然資源がない。そしてこの国を繁栄させてきた資源は別のところにある。それは繊細、丁寧、緻密、簡潔にものや環境をしつらえる知恵であり感性である。(中略)しかし文化の根底で育まれてきた感覚資源はお金で買うことはできない。求められても輸出できない価値なのである。
感覚資源は輸出することができない。たしかにそうかもしれません。どちらかというと「身体的な経験」を通して受け取る他ないものかもしれません。
「差異を蓄積する」こともあるかもしれません。様々な国、地域に足を運びその土地柄、文化を肌で感じることで、自分が「何気なく受け取っている・感じていること」が相対化されて強く意識されるようになる。そんなこともあるのかもしれません。
ふと「和食」のことが思い浮かびました。ユネスコの無形資産に登録された和食は、それこそ日本人の美意識そのものなのではないでしょうか。
味が強いものばかり食べていると味覚が鈍り、素朴で奥行きのある味わいを感じることができなくなるように。「美意識・感性」というのは非対称的というか非可逆的というか、強いものに慣れすぎてしまうと繊細なものを受け取る力がなくなってしまうのではないか。
目立たないかもしれないけれど、それが欠けてしまうと物足りなさを感じてしまう「出汁」の奥行き・深みを感じる繊細さを日本人は兼ね備えている。気付いていないかもしれないけれど、自然と育まれている繊細さがあるのではないか。「出汁がきいてるね」と自然と口をついて出てくるのですから。
生活者の意識も、省エネルギーや環境に対するふかの軽さを前向きに受けとめるようになり、暮らしの、目に見えない中心に、過剰を避け、節度をわきまえていく志向や理性をひそやかに宿らせているのである。
過剰を避ける。節度をわきまえる。この言葉に触れて思い浮かんだのは「自分のまわりは何が過剰なのだろうか?」という問いです。