自分がハンドリングできる価値観の単位
今日も引き続き『匠の流儀 - 経済と技能のあいだ』(編著:松岡正剛)より「第1章 資本主義社会と匠たち - 社会力・経済力・文化力」を読みました。それでは一部を引用します。
そのイーガンが「創造力は、想像力を触発しないかぎりは生まれない」というすばらしい主張をし、その方法を「イマジナティブ・アプローチ」と名付けた。大賛成だ。「イマジナティブ・アプローチ」は子どもに次の一五の学習を勧めるということに特徴がある。こういうものだ。
①できるかぎり「物語」を重視する。②柔らかい「比喩」をいろいろ使ってみる。③何でも「いきいき」としているんだという見方をする。④とくに「対概念」に慣れてイメージを膨らませる。⑤「韻」と「リズム」と「パターン」に親しんで言葉になじむ。⑥「冗談」や「ユーモア」で何かがわかるようにする。⑦内外の「極端な事例」や「例外」に関心をもつ。⑧ふだんの「ごっこ遊び」はとことん究める。⑨自分の「手描き」のイメージで何が描けるかを知る。⑩「英雄」とのつながりを感じられるようにする。⑪身の回りと世界にどんな「謎」があるのかという関心を持つ。⑫どんなことも「人間という源」に起因すると知る。⑬好きな「コレクション」と「趣味」に遊べるようにする。⑭事実にもフィクションにも噂にも「驚き」をもって接する。⑮想像力を育む認知的道具の大半は「日々の生活」のなかにある。
いささか子どもにかこつけて「小さな切り口の充実」にこだわりすぎたかもしれないが、私はそうでもないと思っている。今日、社会や組織やネットで最もかけていることは、自分がハンドリングできる価値観の単位がわからなくなっているということであるからだ。いつのまにかそうなってしまったのである。大半の情報が視聴率やアクセス数によってつねに上位化されるため、一人ひとりにとっての価値選択力がたいそう甘くなっているからだろう。グーグル主義の悪影響も出ている。まことに困ったことだ。
「創造力は、想像力を触発しないかぎりは生まれない」
そうかもしれません。一方で、「想像なくして創造なし」なのでしょうか。「創造が想像を触発する」ことはありえないのでしょうか。そんなことを思いました。
キエラン・イーガン(カナダの教育学者)が提唱した「イマジナティブ・アプローチ」における15の学習。大人も子どもも関係なく、もしこの15項目を実践していたら、毎日の生活がほんの少しでも新鮮に感じられるのではないでしょうか。
たとえば、著者は①の「物語」について「小説や映画のストーリー性」ではなくて「想像性を創造力に近づけるには物語的な感情(emotion)が必要」だと補足しています。
「物語的な感情とはどのようなものだろう?」と考えてみると、何かに導かれるような感覚というのか、何かとの出会いや出来事に意味を持たせてゆくこと。事実の羅列としてではなく、その間につながりを感じること。それが物語的な感情ということなのではないでしょうか。
「今日、社会や組織やネットで最もかけていることは、自分がハンドリングできる価値観の単位がわからなくなっているということであるからだ。」と著者は述べていますが、何かを実現しようとする、何か行動しようとする時に、自分として実感が湧かない空虚な「大義名分」を要請され、その空虚さを飲み込まざるをえない状況に慣れてしまった。
自分が感じることのできる「手触り」を取り戻す必要がある。著者の言葉はそのようなメッセージを感じました。そしてイマジナティブ・アプローチにある15の学習項目は「意味という手触り」を取り戻すための感性を育むことに他ならない。そんなことを思いました。
「自分がハンドリングできる価値観の単位」という言葉が胸にのこります。