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「甘い」は味だけではない、ということから見えてくること

今日は『触楽入門 -はじめて世界に触れるときのように-』(著:テクタイル)から「心が「ざらざら」するとき、実際に触感を、感じている?」を読みました。

昨日は「触感の視覚的表現」というテーマにふれました。触感を視覚的に表現するとはどういうことなのか。触感の80%は「硬軟・冷温・乾湿・粗さ」で説明されるという研究結果が出ていることが本書で紹介されていました。

触感の視覚的な表現の事例として、タオルの「ふんわり」としたやわらかさを表現するため、タオルに力をかけた後ゆっくりと元の形に戻っていく様子を撮影したプロモーションが紹介されていました。これは「硬軟」に属する触感を表現したものと捉えることができます。

また、目の不自由な方が描いた絵の事例も紹介されていました。触覚が優位となる場合、どのように世界を捉えるのか。紹介されていた絵からは2種類の線の使い方が見出されていました。形状の表現触感の表現です。泳いでいる自分の姿の描写では「水の流れ」が線として表現され、アルコールの入ったグラスの描写では「酔いの感覚」が波線として表現されていました。

触覚と視覚は密接に関連しているのだなと感じ、とても興味深かったです。

さて、今回読んだ範囲では「共通感覚」というテーマが展開されています。

共通感覚とは何だろう?

共通感覚とはどのような感覚なのでしょうか?著者は次のような例をあげています。

 赤いトウガラシは、青いトウガラシより「辛い」し「熱い」ような気がしますし、甲高い声は低い声と比較すると「重み」が少ない気がします。黒い色の箱は白い色の箱より重く、甘いチョコレートは苦いものより滑らかに感じますこのような感じはどこからやってくるのでしょうか。

辛い・熱い・重い・滑らか。これらはいずれも触覚的な感覚表現であることを踏まえると、色(視覚)と触覚、声(聴覚)と触覚、味(味覚)と触覚のように、「複数の感覚の間に共通する何か」が存在していることを示唆しています。

 共通感覚というのは、アリストテレスの考え出した哲学用語です。彼は人間の知覚を5つの感覚モダリティ(感覚様相)に分類しましたが、その際に、外界の事物には、2つ以上のモダリティを通して認知できるものがある、と指摘しています。例えば、形や大きさ、数などは、見るという視覚モダリティによっても、触るという触覚モダリティによっても感じることができます。見る体験と触る体験という、異なる感覚器官によって得られた異なる感覚の間に対応がつけられ、共通のものが感知される。

異なる感覚を通した体験に対応関係が生まれる。そして、共通のものが感知される。体験を何かしらの言葉で表現することを通して共通性が見出されることは興味深いです。いつからか自然とそのような共通感覚を表現している自分がいること。無意識のうちに共通項を見出していると思うと、身体感覚は統合的なのだなとあらためて感じます。

「甘い」の適用範囲の広さから見えてくること

著者は、アリストテレスから着想を得て『共通感覚論』を書いた哲学者の中村雄二郎氏の言葉から次の例を取り上げています。

この共通感覚のあらわれをいちばんわかりやすいかたちで示しているのは、たとえばその白いとか甘いとかいう形容詞が、視覚上の色や味覚上の味の範囲をはるかにこえて言われていることである。すなわち、甘いについて言えば、においに関して<ばらの甘い香>だとか、刃物の刃先が鈍いのを<刃先が甘い>とか、(...)<甘い音色>だとか、さらに世の中のきびしさを知らない考えのことを<甘い考え>だとか、など。

わずか数行の文章の引用からでも「甘い」という言葉の射程の広さが垣間見えました。「刃先が甘い」という表現は「鈍い(鋭くない)」状態を表していると想像ができます。味に関する甘さを表現しているのではないけれど、言いたいことが分かります。もったりしている、まとわりつく、そんな印象が「鈍い」と重なる部分があるような気がします。

 脳の第一体性感覚野は、全身から届いた触覚情報を処理している場所として知られている部位なのですが、どうやら「ギクシャクしている」「とげとげしい」「荒れている」などというように触感を通じて状況を認識するときにも、脳は触覚を司るこの領域を使っているようなのです。

「ギクシャク」「とげとげしい」「荒れている」といった言葉で心・気持ちの様子や状態を表現する例が挙げられています。たしかに言われてみると、なぜ触覚的な表現なのでしょうか。脳の活動を調べる中で見えてきたこと。

思うに「最も実感を伴う」のが触覚だからではないでしょうか。身体で触れるという行為は対象との距離をゼロに縮めることに他ならないですから。

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