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「器的なもの」ってなんだろう?

今日は『日本のデザイン』(著:原研哉)から「東日本大震災から」を読みました。

昨日読んだ内容を少し振り返ると「主体性と感受性」というテーマに触れました。著者は「評価される、という受動性には、何か大きな力や文化に依存している甘えがある」と述べていました。

世界から評価されるのではなく、世界で機能するという主体性を持つ。それは「誰からも評価されないとしても、自分の直感に従って歩を進め続ける」こと。

アジアにある「自然と人工を対立するものと考えない」あるいは「合理性だけでなく、肌合いや感触を重視する」感性。日本に通底する繊細、丁寧、緻密、簡潔という美意識はそうした感性に通じている。

江戸時代は循環型社会が実現されていたことを思い返せば、過去の日本の歴史にあらためて学び、形を変えて現代によみがえらせてゆくことに意味があるのではないだろうか。そのようなことを思ったのでした。

さて、今回読んだ範囲のテーマは「受容と再生」でした。

東日本大震災が発生した2011年3月11日から10年以上の月日が経過したわけですが、発生当時に私が身体で感じたゆれは身体的な記憶として残り続け、今でも鮮明に思い出すことができます。

復興、再生のあり方。時間を巻き戻して過去の再現に向かうのか、あるいは過去の延長線上にない未来を思い描くのか。

何かがリセットされた状況を土壌に例えるとするならば、そこから芽生える草木の成長が描く軌跡は無限とも思える選択の可能性があります。同じ場所から過去と全く同じ軌跡をなぞるように描きながら成長する確率は極めて小さいはず。

そう思うと著者の次の言葉が印象に残りました。

若いデザイナーたちも、国や自治体からの具体的な要請がなくても自発的に活動を展開しはじめている。こういう無数の知の成果を受け入れる巨大なパラボラアンテナのような仕組みこそ、復興のグランドデザインに相応しいのではないかと僕は思う。中央集権的な上意下達ではなく、多種多様なアイデアの受容に最大の力点を置く仕組みである。

「中央集権的な上意下達ではなく、多種多様なアイデアの受容に最大の力点を置く」

「受容」が気になります。満たすものではなく、まず受け入れる器をつくることから。あれこれ考える。手探りで形にする。形にしたとしても、受け皿がなければ、いずれこぼれ落ちてしまう。だからまずは「器」を作ることが必要なのだということ。

ふと「器的なものってなんだろう?」と思うわけです。

例えば、「問い」は器的なものだと思っています。問いは様々な面を持ちます。好奇心(何でそうなるの?)と呼ばれることもあれば、懐疑心(本当に?)と呼ばれたりもする。いずれにしても、その問いに吸い寄せられるように色々なことが結びついて、自然と問いを満たしてゆく。

あるいは身体。身体も器的なものだと感じます。例えば瞑想しているとき。周囲の環境が自分の内側に融け込んでゆくというのか、つながってゆくというのか。何か特定の存在に意識が向くというよりは、全体が全体として感じられる瞬間がある。

コンテンツ(満たすもの)を生み出そうとするのもよいけれど、まず必要なのは人それぞれの「器的なもの」なのではないだろうか。そんなことを思ったのでした。

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