「物」という言葉から連想される何かは、無機質?それとも有機的?
今日は引き続きミハイ=チクセントミハイ(アメリカの心理学者)による『モノの意味 - 大切な物の心理学』の第2章「物は何のためにあるか」より「役割モデルとしての物」を読みました。では、一部を引用してみたいと思います。
一九六〇年代まで、多くのアメリカ人は自宅にある家電製品に誇りを感じ、それらを使うことが技術的統制にもとづく支配的イデオロギーをともなう共感的参加の機会となっていた。この関係は、決して消えてしまったわけではない。毎年、たとえばフード・プロセッサーやワード・プロセッサーといった驚異的な新技術が、大勢の大衆消費者を熱中させている。
しかし一九六〇年代後半から、植物も都会の家庭では重要な存在となってきている。今や植物との交流は、家電製品との交流とは違う意味を担ってきている。前者には、生殖性や養育性という性質、涵養それ自体の象徴化と同時に生命への貢献という実感がある。ムディの木の下で成女式を行うヌデン部族の少女のように、多くの回答者たちが、いかに自分たち自身の目標が室内の鉢植えによってはぐくまれているかを強調している。
植物に対する注意の増加は間違いなく、近年文化の一部となりつつあるエコロジー的価値の涵養を意味している。しかし、それでも問題がひとつ残る。すなわち、自然環境とのこのような小宇宙的交流は文化的価値の原因なのか、それとも結果なのか。色々な可能性を考慮すると、「両方」とも正解なのかもしれない。
「今や植物との交流は、家電製品との交流とは違う意味を担ってきている。前者には、生殖性や養育性という性質、涵養それ自体の象徴化と同時に生命への貢献という実感がある。」
この言葉が印象的でした。
「物」という言葉を見たり聞いたりする時、何を思い浮かべるでしょうか。無意識のうちに、どこか「無機質」な物を思い浮かべている自分に気がつきました。動物や植物、にも確かに「物」という言葉が入っています。そしてそれらはとても「有機的」な物です。生物です。
「涵養」という言葉が本書を貫くキーワードですが、それは一言で言えば、「能動的な解釈過程」なのでした。物との関わり合いの中で、新しい一面を見出してゆく過程を通して、自身を育んでいく。
「前者(植物)には、生殖性や養育性という性質、涵養それ自体の象徴化と同時に生命への貢献という実感がある」と著者は述べていますが、植物を含む生物は時間と共に成長する物、変化する物です。
そうした変化を観察することは、すなわち「気を配る」ということであり、「気を配る」という営みを通じて、他者や物、そして自分自身との「有機的なつながり」を育んでゆく。
著者は「エコロジー的価値の涵養」という言葉を使っていますが、「エコロジー」という言葉は「生態学的」であり、その根幹にあるのは「生命」や「調和」だと思います。
日々接している「物」をあえて「無機質な物」と「有機的な物」に分けるとしたら、自分はどちらに多く囲まれているだろう。あるいは、一見「無機質」に見えるけれど、じつは「有機的な物」というのは存在するだろうか。
そのような問いが浮かんできました。