砂漠と森。二項対立とグラデーション。一神教と多神教。
今日も引き続き『匠の流儀 - 経済と技能のあいだ』(編著:松岡正剛)より「第2章 日本の経済文化の本来と将来3. 編集的日本像」から「日本の奥にひそむ原型」を読みました。それでは一部を引用します。
一神教では、つねに信仰する神は唯一絶対です。もともと一神教の宗教は、砂漠で生まれたものです。砂漠で生きる人々にとって、ジャッジメントというのはつねに「二つに一つ」なんですね。善か悪か、得か損か、つなぐか切るか。つまり、砂漠では右に行ったらオアシスがあって生き延びることができるけど、左に行ったら熱砂の砂漠が続いて死ぬかもしれない、右は正解だが左はまちがいというように、二項対立型、ダイコトミー、二者選択型のジャッジメントが重要になります。
これに比べて、多神多仏のヒンドゥー教や仏教などの宗教は森で生まれたものです。森というのは、たくさんの情報があって、何があるかは行ってみないとわかりません。滝があるかもしれないし、毒キノコがあるかもしれない。(中略)クマがいるかもしれない。そういうものにすべて詳しい人はなかなかいませんので、森で生きていくためにはジャッジメントのためにたくさんの専門家、エキスパートが必要になります。キノコに強い人、動物に強い人、地形に強い人など、専門分野をもった人たちが集まって合議して決めていくわけですね。雨期があるので、判断を保留することもときには必要です。得か損ではなくて、損して得するなどというグレーゾーンも重視します。
一神教の世界では問題の保留はまずしません。どんどんロジカルに決める必要がある。そのためのディシジョンメーカーも一人でなければ困る。それが唯一神、絶対神のようなものが生まれる背景になっています。
一神教と多神教。砂漠と森。二者択一と多様性。態度を保留する・しない。意思決定は自己の内部にある判断基準(神)によるのか、合議による集合知によるのか。
宗教のルーツを辿ったときに、その宗教はどのような「環境」や「文脈」のもとで誕生したのか。歴史やプロセスを掘り下げることで、物事の捉え方が変わることがとても新鮮でした。
宗教から離れてみても、ある人の信念や考え方は生まれ育った環境や環境、文化に影響を受けているということに、あらためて意識を向ける必要があると気付かされます。
また、砂漠と森の対比を通じての学びは、論理性や判断の迅速性を磨くのに適した環境(それが求められる環境)と、多様性な経験を通して自己の世界を拡張してゆく環境は異なるということ。
自分が変化したい方向があるならば、その方向にふさわしい環境に身を置くこと。そのようなことを思いました。