「それぞれ良い」という価値判断があるということ。(良し悪しの対立構造を乗り越える)
最近なにかと気になる展示が多く、今日も美術館に足を運んだ。目当ては『ガウディとサグラダ・ファミリア展』。アントニ・ガウディは1852年に生まれたスペイン・カタルーニャ出身の建築家。「聖家族贖罪教会」とも呼ばれる1882年着工のサグラダ・ファミリアは、ガウディが二代目建築家に就任し、ライフワークとして設計から建築までを手掛けていたが、2023年現在も完成していない荘厳な建築物である。
「生命ある造形的ヴィジョンを作品に与えなければならない」
「すべては大自然の偉大な本からである。人間の作品はすでに印刷された本である」
これらはガウディが残した言葉ですが、彼の作品はまさに言葉の体現とも言えるほどに生命的なのです。以前もふれたように「生きる」ことの本質とは「生き生きしている」ということ。
「生き生きとしている」と感じるのも、ある意味では価値判断です。「生き生きしている」様子がわかるならば、対極としての「生き生きしていない」も見えてくるはず。数学者の岡潔先生は著書の中で「価値判断」について言及しているのですが、現在と昔では価値判断がまるで違うというのです。
夏は愉快だが冬は陰惨である。青い空は美しい。
このように良し悪しの境界線を引いて「良い」とされる状態・領域を定め、そこに合致するものを良しとする価値判断というのは、不要である・間違っているとは申しませんが、本来感じ方は「人それぞれ」である中、そうした価値判断が過剰になってしまうと、どこかで窮屈に感じることが出てくるのではないかと思います。
自分と他者では生物学的にも身体構造は違うし、認知の仕方も違う。生まれ育った環境、歩んだ歴史も経験、そしてそれらに下支えられた信念や価値観も違います。
ですから、たとえ同じ物を見ていたとしても、自分と他者では見え方や感じ方が違うほうがむしろ自然なはず。他者との違いを意図的に生み出す「差別化」ではなく、創発的な「差異化」が起きていくはずです。
「感じ方は人それぞれ」というところから出発して、相手の感じ方、見え方を「わかろう」と努める。岡先生の言葉を借りれば、相手になりきる、そのものになりきる、すなわち「体取する」ように努めることから始める必要がある。
今日の展示では、一つ一つの説明に囚われず、ガウディが生涯をかけて取り組んだ作品をじっくりと「体取」できた気がするのです。
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