「ふれる」ということ
今日からしばらくは『触楽入門 -はじめて世界に触れるときのように-』(著:テクタイル)を読み進めていきます。
この本を読もうと思ったきっかけは、昨日まで読んでいた『わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か』のなかで用いられていた「身体のセンス」という言葉が気になっているからです。他者と共有する場の空気を感じとる。
コミュニケーション教育の中で「対話の前提となる身体のセンスを身につける」ことが志向されていることを知りました。そのとき直感したのは「身体のセンスの中心にあるのは触覚なのではないか」ということです。
今日は本書から「触感に気づく」「触覚は人の心や思考を左右する」を読みました。
触れるにきづく
私たちは毎日何かにふれています。服を着たり、カバンを持ったり、食事をするときに食器にふれたり、携帯やパソコンにふれたり。ありとあらゆる場において何かにふれ続けています。
何かにふれていない瞬間は生まれてから死ぬまで一秒たりとも存在しないのではないでしょうか。そして、人と人のコミュニケーションも「ふれあう」と表現されます。
物理的にふれていなくても「ふれあう」と表現します。この時「ふれあう」とは何と何が「ふれあう」のでしょうか。自分の心と他者の心でしょうか。
昨日まで読んでいた『わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か』を参照すれば、それは自分のコンテクストと相手のコンテクストが重なりあうこと、とも言えるかもしれません。「重なりあい≒ふれあう」という関係性、構図が見えてくる気がしませんか。
そう思うと、「”ふれる”とはどのようなことか」を考えることは、そのままコミュニケーションを考えることにつながっているように思います。著者は触覚という感覚を「身近すぎて注目されてこなかった感覚」と述べます。
身近すぎて意識されない感覚。触覚。自分が置かれているコンテクストも、自分とは異なるコンテクストにある他者と「ふれあう」ことにより「ずれ」として意識に立ち上ってきます。
自分の「こういうつもり」と相手の「こういうつもり」が違うことで自分を意識するようになる。あるいは相手の世界に足を踏み入れていく。
触覚は細胞レベルで「外界の変化を感じ取る」能力を司っている。この外界の変化を感じ取るというフレーズと、コミュニケーションにおける「身体のセンス」という言葉が重なるように思いました。
ふれていることに気づかない。自分と相手がふれあっているように見えても実際はふれあっていない。何かにふれる感覚を取り戻す。自分が意識できる目に見えるものからでいいから、ていねいに感じとる。わずかな積み重ねがいつか大きく花開くように。
「ふれていて心地よいものに囲まれる」ということ
著者は、身体性認知科学において「触覚が意思決定や心のあり方に影響を及ぼしている」と述べます。
話は横道にそれますが、肌寒い日にマグカップで飲む温かいコーヒーって、なんだかとても落ち着くんですよね。ゆっくりと時間をかけて一口ずつ味わっているときです。もちろん、温かいものが自分の身体を内側から満たしていく、冷えきった気持ちをじんわりと温めてくれることもあります。
それだけではないと思うんです。マグカップの柔らかなふくらみ。両手で包み込むように持つとマグカップがなんだか自分と一つになるような安心感。そして陶器のツルツルとした質感・さわり心地。たまらなく落ち着くのは、まさに「ふれる」ことからきているのではないか、と。
「素材・身体・心の関係の上に触感が生まれる」
そうそう。そうなんですよね。先ほどのマグカップのこと。まさにそうなんだよなあ、と思いました。
もし急いでせかせかとコーヒーを流し込んでいたら、素材と身体は満たされるけれど、きっと心は満たされていない。マグカップにふれていることからくる安心感はやってこない。感じとることはできない。
マグカップをこの世で一番最初に作った人は、きっと心が満たされたに違いないんだろうな。ホッとする。マグカップがこの世に生まれて本当によかった。
ふれていて心地よい何かに囲まれる。それは物理的なものだけでなく、人と人の関係にもあてはまるはず。