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分別のある遊び人になる
今日は『反脆弱性』(著:ナシーム・ニコラス・タレブ)から「「目的論的誤り」と「分別ある遊び人」」を読みました。
反脆くなるためには「まずダウンサイドリスクを抑えること」と「極端にリスクが低いものとリスクが高いものを組み合わせること」の2つが重要なのでした。
前者については、将来的に大きなリターンを享受するためには生き残り続けなければなりません。衝撃やストレスがかかった時に崩壊してしまったら、その時点で将来的にリターンを得る可能性はゼロになってしまいます。
後者は「中間的なリスクのものに全てを投じない(混ぜるな危険)」という話で、リスクの評価には少なからず誤差が含まれるので、中程度のリスクに対して全てを投じると、誤差が積み重なってしまい、結果的にシステムが崩壊してしまう可能性があります。
いずれにも共通することはダウンサイドリスクを限定的にすることです。
さて、「自分は行き先を完璧にわかっている」「過去に自分の行き先を完璧にわかっていた」「過去に成功した人はみんな行き先をわかっていた」という錯覚を、本書では「目的論的誤り」と呼ぼう。
将来を完璧に予測できたらいいのに。そのようなことを思ったこと、誰しもあるのではないでしょうか。それは不確実性、つまりリスクがゼロの世界であることを意味します。
ですが、そのような世界では「予想外」が存在しませんから、ドキドキも、ハラハラも、ワクワクもしない。ある意味で受動的な世界とも言えるのかもしれません。すべてが予定調和的にただただ流れてゆく世界。成功するか、しないかが分からないからこそ、人は挑戦するのではないでしょうか。
また、「分別ある遊び人」とは、観光客とは違って、立ち寄った先々で旅程を見直し、新しい情報に基づいて行動を決められる人だ。(中略)遊び人は計画の囚人ではない。(中略)計画は完璧であるという仮定のもとで成り立っていて、人間を、修正の難しい計画の囚人にしてしまう。一方、遊び人は、情報を獲得するたびに絶えず理性的に目標を修正していく。
私は旅をする際に予定を詰め込むのが苦手で、ほとんどを自由時間にしています。事前に行きたい場所を決めることは控えめにして、現地で得た情報にもとづいて、その場で行きたい場所を決めます。
著者がいうところの「分別ある遊び人」かどうかは分かりませんが、少なくとも予定不調和を楽しんでいるように思います。計画通りに事が運ぶよりも、予定外に出会ったほうが振り返った時に記憶に残っていることが多い。
自分の行き先がちゃんとわかっていて、明日の自分の気分が今日わかるという思考の誤りには、もうひとつ、関連する誤りがある。他人も自分の行き先を理解していて、ほしいものを訊ねればちゃんと答えが返ってくるという思い込みだ。
誰も行き先なんてわからない。世の中どうなるかわからない。自分のことでさえ全てを把握しているわけではない。
反脆くあるためには完璧な計画を作るよりも、予想外のことを楽しむ、推進する力に変えていくことに集中する。
そう思うと、自分にとって「本・人・旅」は予定不調和な未来を運んでくれる運び手のような存在なのです。