「総合的な判断」に貴重な時間を使う
今日は『創造的人間』(著:湯川秀樹)から「人間と機械」を読みました。
まずは昨日読んだ内容を少し振り返ります。「失敗をするなら早いほうがいい」と著者は説いていたのでした。自然界に潜在する未知(可能性)を既知に変えてゆく営みが科学。科学が社会に浸透してゆく中で新しい快適をもたらす反面、初期の頃には想像もしていなかった「副作用」が表れる。
だからこそ、早めに失敗することで将来起こり得る副作用(未知)に気づいて軌道修正をかける。大きくなってからでは失敗することが難しくなってゆく。
日常生活で出会うのは既知ばかりではない。本、人、旅など。未知は無限にあります。科学における基礎研究も未知を既知に変えてゆく営みであるとするならば、日常生活は基礎研究そのものなのではないだろうか。そのようなことを思ったのでした。
さて、今回読んだ範囲では「科学文明に生きる人間のあり方」というテーマが展開されていました。
速さの極限の先には?
著者は「とくに人間が刺激に反応するのに要する時間を、ある限度より縮めることはむつかしい」と述べます。
ある成果を達成するならば、必要とされる時間は短ければ短いほうがよい。生産性・効率性向上の追求。その極限は機械化・自動化だと思います。その世界ではもはや人間が入る隙間は見当たらなくなるのでしょうか。
速さの極限の世界に人が介在できないとなると、人間が向かうべき世界はどこなのでしょうか。遅さの追求?
人間vs機械という構図ではなくて、互いに補完しあう。そのような世界に向かうために大切なことは何でしょうか。そこには明確な境界線があるのか。あるいはグラデーションなのか。
「機械とはどのような存在だろう?」という素朴な問いが浮かんできます。
人間にとって大切な力。総合的な判断力。
著者は「人間にとっては個々の刺激に対するすばやい反応よりも、ずっと大切な能力がある」と述べます。
総合的な判断とは何でしょうか。それは論理的には白黒がつけられないものに白黒をつけること。決めること。道筋をつけること。そんな言葉が頭に浮かびました。
我が身を振り返ってみても「割りきれないこと」に出会うことがあります。論理的に考えたら(何かしらのルールに従って考えれば)「いずれも正解」という時に、どのように答えを出すのでしょうか。
最後は「直感で決める」というのか、とにかく決めるしかない。あとからなぜその答えを出したのかを上手く説明できないこともありますが、決める。
機械は論理の世界、確率的な世界で決めてゆく存在。人にあって機械には備わっていないものは何でしょうか。生身の肉体、身体感覚に根ざした直感。
加速する社会に流されず、ゆったりとした時間の中で自分の直感を働かせて決める。
人間らしさの核心は「総合的な判断力」という言葉に集約されるように思えてきました。
慌ただしい時間の流れに飲まれて、人間らしさを失われないように。穏やかな時間をつくります。