「テレビ」との付き合い方
今日はミハイ=チクセントミハイ(アメリカの心理学者)による『モノの意味 - 大切な物の心理学』の第3章「家の中でもっとも大切にしている物」より「テレビ」を読みました。では、一部を引用してみたいと思います。
テレビを評価する理由は、しばしば、あたかも回答者が依存している嗜癖について語るような罪悪感を帯びている。次に引用する十代の若者たちの回答はその典型である。
本当に疲れていると、テレビを見るのも読書するのも変わらない。でも、テレビは自分のために勝手に働いてくれる。テレビを前にすると、たっぷり暇つぶしができる。テレビがあると何もしないけど、なければないで本当に退屈してしまう。
次の引用は、ある高齢女性の回答である。
私はテレビが大好きなんです。私は一人住まいだからテレビがとても恋しくて仕方がないの。本だとベッドで背中を持たれかけていなければいけないけれど、テレビだとその必要もないし、ずっと楽なの。
しかし時として、次に紹介するような熱狂的支持者にであることもある。この女性の家には、少なくとも六台のテレビと十台の電話がある。
私はテレビが好きなの。それは世界全体を救うものだと確信しています。だって、瞬時のコミュニケーションはたくさんの問題を軽減してくれるはずです......テレビなしで生活するのは難しいことよ。そういう風に情報を得ることに私たちは慣れてしまっているんですから。テレビに勝るものは他にないのではないかしら。とにかくテレビはいろいろな使い方ができます。結局のところテレビは必需品で、もっとも重要な物なのよ。私はソーシャルワーカーだったんだけれど、貧しい人たちにいつもテレビを勧めてきたわ。テレビは世界に開かれた窓なの。教育を受けていない人でもテレビから学ぶことができるわ。マクルーハン流に言えば - 内容はそれほど重要じゃないのよ......重要なのはテレビという存在よ。私は本当にそう思うわ。
「あなたにとって、テレビはどのような存在でしょうか?」と問われたら、どのように答えるでしょうか?
本書のインタビューは、1977年のシカゴ都市部に住む82の家族に対して実施されたものです。現代ではインターネットに接続すれば、瞬時に様々な動画メディアに触れることができます。インターネットが存在しなかった当時の生活からすれば、テレビは動画コンテンツを届けるメディアとして、確たる地位を築いていたことは想像に難くありません。
今回引用したインタビューには、テレビというメディアの特徴が表れているように思いました。「受動的であること」と「誰でもアクセスできること」です。
たとえば、「本」というメディアは自分で読もうとしなければ、その内容は入ってこない。つまり、「読む」という能動的な営みが必要とされますが、テレビの場合はチャンネルを付けるだけで、向こうからコンテンツが一方的に発信されてきて、人はそれを受け取ることが主となります。たしかに楽といえば楽ですが、「受け取り続ける」という意味で、そこには自ら関わろうとする「意識」は必要とされず、退屈と言えば退屈なのかもしれません。
また、ソーシャルワーカーとしての経験をお持ちの女性のインタビューからは、テレビは「誰もが学ぶ機会」としての側面を持っている、ということが示されました。たしかに、ニュースやクイズ、ドキュメンタリー番組など、新しい情報を取り入れたり、知らないことを知る機会への窓口になっているかもしれません。
私はかれこれ4・5年ほど自宅にテレビを置いていないので、テレビを見る機会は滅法少なくなりましたが、自宅にテレビを置いていた時は「世界の車窓から」という番組を好んで見ていました。
車窓から眺めた様々な国の景色をナレーション付きで短く紹介する、とてもシンプルな番組ですが、映像の美しさと共に、「世界には自分が知らない美しさに満ち溢れているのだな」と毎回心を動かされていました。
テレビがある環境、テレビのない環境。「人は関わったモノでできている」のだとすれば、どのようにテレビと付き合っていくべきなのだろう。「生活空間を構成するモノとしてのテレビを通じて、自分という人間はどのように影響されているのだろうか、変化しているのだろうか」という問いが浮かんできました。