見出し画像

「語らずに語る」ということ

今日は『日本のデザイン』(著:原研哉)から「国立公園」を読みました。

昨日読んだ内容を少し振り返ると「リゾートとは何か?」というテーマに触れました。リゾートという言葉から何を連想するのか。海、青空、立派なホテル、豪華な料理。いわゆる「リゾート」という言葉から連想されるのは、いわゆる「西洋式」の嗜みだとすると、他の可能性を暗黙のうちに捨象していないだろうか。

著者は「重ねて行きたくなるような潤いのある息抜きのかたち」と述べていましたが、大切なことは「潤いのある」という部分だと思いました。「潤いがある」に込められたメッセージは「探ることの重要性」だと思いました。

人工的に作り込んだ環境の中で、予定調和的に一方的に何かが届けられるのではなく、適度な余白の中で環境の中にある要素、関係を自ら見つけながら溶け込んでゆく。自分の中にあるリズムやペースに根ざした能動性が発揮される環境の設計・運用が大切なのではないだろうか。そのようなことを思いました。

さて、今回読んだ範囲では「情報のデザイン」というテーマが展開されていました。

全体と部分の調和

日本は戦後、高度経済成長を経て豊かさを享受してきました。その過程では工場が乱立し、自然環境の汚染が発生した。公共空間には商業建築や看板が乱立した。著者はそのような経緯を踏まえ、日本について「小さな美には敏感だが、巨大な醜さに鈍い」と述べます。

経済を加速させていくために容認されてきた公共空間における奔放な商業建築や看板の乱立は、景観を慈しむ感覚を麻痺させ、日本人の感性の上にかさぶたのような無神経さと鈍感さを貼り付けてしまった。現代の日本人は「小さな美には敏感だが、巨大な醜さに鈍い」と言われるが、その背景がここにある。

公共空間や都市。これらは、包み込むような全体性のある概念。一つ一つの建物や製品などは作り込まれる一方、公共空間や都市全体での調和はどこまで考えられているのか。部分最適の集積は必ずしも全体最適を実現しない。

逆に言えば、部分最適の集積が全体最適(公共空間や都市全体での調和)を実現するためには何が必要なのでしょうか。何かしらの制約なのか、あるいは一貫したコンセプトなのか。

工業生産で少しやつれてしまった国土を心休まる安寧の風土として再生させていくためには、まずは掃除をしなくてはいけない。すでに何度も述べているように、日本人の感受性はもとより繊細、丁寧、緻密、簡潔なのである。これを自覚していくことで、経済文化の次のステップへと僕らは進んでいけるような気がするのだ。

「まずは掃除をしなくてはいけない」という著者の言葉が印象的です。掃除とは何でしょうか。文字どおり「掃いて除く」ということ。散らかったままでは全体を整えることは難しい。

繊細、丁寧、緻密、簡潔。日本人の感受性が発揮されるためには余白が必要となる。とすれば、余白を塗りつぶしてゆくような量的な追求ではなくて、余白を残しながらも必要最低限の要素を配置し、その要素を中長期的に育みながら運用する。そうした質的な追求へのシフトが求められているのかもしれません。

「語らずに語る」ということ

著者は「国立公園」の発祥であるアメリカにおいて、情報のデザインが適切に行われていることを紹介します。

情報デザインのゴールはそれを用いる人々に力を与えることである。(中略)読みやすく美しい情報ツールを手に国立公園に向かうとき、人々は、その体験を通して多くの人々の意識と連携することができる。おそらく国立公園というものは、自然そのものではなく、むしろその自然とどう向き合いどう慈しむかという、人の意識の中に構築された無形の意識の連鎖なのではないか。そういう意味で、国立公園は高度なデザインの集積ともいえる。

「情報デザインのゴールはそれを用いる人々に力を与えることである」

情報をデザインするとはどのようなことなのだろう。それは何のため、誰のためなのだろう。そもそも情報とは何でしょうか。

注目したいのは「自然そのものではなく、むしろその自然とどう向き合いどう慈しむか」という言葉です。自然環境の中に身を置くとき、人は身体感覚を通して様々な情報を得ています。光(景色など)、音、香り、風、地面の感触など。意識される情報はその一部に過ぎない。

そうだとすれば、無意識には捉えているが意識されない情報に意識を向けるきっかけを作ること。答えを与えるのではなくて触媒的であること。情報のデザインの核心は「触媒」にあるのではないかと思うのです。「見立て」の想像力を引き出すような触媒が。与えすぎず、簡素にすること。

デザインは、商品の魅力をあおり立てる競いの文脈で語られることが多いが、本来は社会の中で共有される倫理的な側面を色濃く持っている。抑制、尊厳、そして誇りといったような価値観こそデザインの本質に近い。(中略)本当に機能している情報は、機能している時には見えなくなる。そうしないと、情報がノイズになってコミュニケーションの品質をそぐ。

「本当に機能している情報は、機能している時には見えなくなる」という言葉も印象的です。

「語らずに語る」とでも言うのか、言葉を並べ立てて説明すればするほど、伝えようとすればするほど伝わらないこと、あると思います。明示的に与えずに、むしろ問いや気付きを引き出すような何かを配置する。生まれた問いは「器」のように機能して、その器の中に発見や気づきが満たされていく。

話は少し横道にそれますが、私は本を読んでいるとき、書かれている文字を見ながらも、書かれていないことに意識が向いてしまうことが結構あります。処理が並行に走っているという感覚でしょうか。

「語らずに語る」「語らずに語られていることは何だろう?」

情報のデザインについて考えるときに大切にしたいことが増えました。

いいなと思ったら応援しよう!