ただただ響き合いたい。言葉、共鳴、星座。
振り返ってみると環境の変化の大きな年だったと思うと同時に「自分らしいとはどういうことだろう?」という問いに対する暫定的な答えが朧げながら見えてきたような一年だったかもしれない。
この年末年始は、過去に一度目を通した『唯識・華厳・空海・西田 東洋哲学の精華を読み解く』(著:竹村牧男)に没頭しながら過ごしていた。
今日は何かを伝えたいというよりも、これまでの体験や読書体験の中で度々起きていた「響き合う」ということを散文的に綴ってみたい。
この言葉にふれた瞬間に降りてきたのは、文化人類学者であるティム・インゴルドによる著書『ライフ・オブ・ラインズ 線の生態人類学』で描かれた「メッシュワーク」という概念である。
重重無尽とメッシュワーク。
それぞれの詳細には立ち入らないのだけれど、この二つの言葉を並べてみるだけでも、そこに通底する響きを感じないだろうか。「自己と他者は互いにつながりあう中で存在する」という一つのコンセプトを通して、華厳哲学と人類学が私の中でみずみずしく出会い響きあう。
さらに言葉の共鳴は連鎖する。
こうした言葉、概念の響き合いこそ「述語的統一」という分かり方なのではないかと直感した。非線形科学の第一人者である蔵本さんが述べるところの「モノ」が無意識的に軽やかに拡張され、「包み込まれるイメージ」とは「共鳴」に対応しているのではないだろうかと思い始める。
この言葉にふれたとき、突如として人工知能(AI)の分野で用いられる重要な深層学習アーキテクチャの一つである「AutoEncoder」のイメージが突如として降りてきた。
AutoEncoderのネットワークは(図の左側)入力されたデータ(≒ 世界)の次元数を下げて(特徴を抽出して)から、再び元の次元に戻して出力する構造であるため、入力から出力への単なるコピーは不可能となっている。こうしたコピーの不可能性が「唯識の識とは、外の物を映し出す透明な鏡のような主観なのではない」という言葉、特に「透明な鏡のような主観なのではない」に共鳴したのかもしれない。
対象面と主観面とは何だろう。相分と見分とは何だろう。その言葉だけでは霞みがかっていて、つかみどころがなかったと思う。仏教と深層学習という一見すれば遠く離れているように思える体系に通底する響き合いを通して、それぞれに閉じていては開けなかった視界が開けるような感覚。
色々な分野の本を直感にしたがって手に取り、読んでいると、いつの間にか自分の中にいくつもの言葉や概念、イメージなどの星が浮かんでゆく。大きさも輝きもバラバラだ。それらの星々が互いに共鳴して、見えなかった線が浮かび上がり、つながりとしての星座が見えてくるように。
あらゆる垣根を超えて、ただただ響き合いたい。響き合いは意識的に意図的に響かせたというよりも、ただただ何かに導かれるように無意識的で縁起的なもの。
何かと何かが響きあう中で見えてくる新たな意味や可能性。その響き合いの中にいるとき、もはや私(という個)は意識されていない。自身もその響き合いの中に融け合うことで、意味や可能性を解放してゆく。そのように生きてゆきたい。
響き合い、融け合うために閉じていながらも開いてゆく。直感にしたがって内側に取り入れてゆく。役に立つか立たないかなんて気にしなくてもいい。分からなさを受容し続けてゆく。最初は分からなくても、まずは「あるがまま」を素直に取り入れてみる。急がずに時が経って発酵し、息づかいが生まれ、内側から芽吹くのを待つ。