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安定・不安定の循環に生命がある
今日は『日本のデザイン』(著:原研哉)から「大人たちのプリンシプル」を読みました。
昨日読んだ内容を少し振り返ると「受容と再生」というテーマに触れました。東北地方を中心に大きな爪痕を残した東日本大震災。時間を巻き戻すことはできない中、新たに向かう未来は過去の再現を目指すものなのか。あるいは過去の延長線上ではない未来なのか。
研究者や若手のデザイナー。中央集権的な上意下達ではなく、自発的に集まる多種多様なアイデアを受容して、再生への熱量を高める「器」としての仕組みが、過去の延長線上にはない未来への道標として機能する。
世の中、満たすもの(コンテンツ)を作ろうとする方向に偏ってはいないだろうか。本当に必要なのは一人ひとりにとっての受容するための「器的なもの」ではないだろうか。身体、問い。器的なものに意識を向ける感性を育みたい。そのようなことを思いました。
今回読んだ範囲では「成熟社会と能動性」というテーマが展開されていました。印象に残った箇所を掘り下げたいと思います。
平衡と均衡への感度
著者は「成熟した社会において進化するのは"感度"である」と説きます。一体どういうことでしょうか。
成熟した市民社会、つまり絶対的な力や権力による抑圧がなく、ひとりひとりが自由な意思で生きていく仕組みが成熟した社会において進化するのは、ものや情報の「平衡」と「均衡」への感度であろう。ピラミッド型の上下関係や中枢を持つ組織構造は、メディアの広がりや浸透とともに徐々に機能しにくくなり、価値や情報は無数の知が連携する開かれた環境の中で再評価されていく。
ものや情報の平衡と均衡への感度。
デジタル技術の発展により、あらゆる情報が時間と空間を瞬時に飛び越えて伝播し、共有される時代です。情報の不均衡がなくなり、特にものに関する情報の不均衡がなくなれば、誰もがアクセスし、消費・所有できるようになる。
「他者が知っていて自分が知らないことはあるだろうか?」と情報の不均衡を是正したくなる気持ちが高まる。そのことが「平衡と均衡への感度」との言葉で表されているように思います。
逆に「この世界で自分だけしか知らないことはあるだろうか?」という問いに対する答えが益々希少になっていくのでしょう。
安定の中にある不安定性
著者は「価値共有の進んだコミュニティは目に見えない排他性を持ちうる」と説きます。一体どういうことなのでしょうか。
しかしながら、そうした新たな常識の裏側にも個人への抑圧は潜んでいる。「解放」と「共有」という、合理性の連鎖を促す社会意識そのものに、特殊な抑圧が含まれていると僕は思う。(中略)「ともだち」とは美しい言葉であって、これが抑圧の源であるとは誰も思わない。しかしこういう流れで考えてくると、価値共有の進んだコミュニティは目に見えない排他性を持ちうる。つまり「ともだち」化は「非ともだち」へのプレッシャーにもなりうるのだ。いじめとは攻撃されるターゲットとして対象化されることではなく「非ともだち」の結果、すなわち「ともだち」化のしわ寄せなのかもしれない。自由の行き着く先には常にそういう不安定さが潜んでいるように思う。
「ともだち」化は「非ともだち」へのプレッシャーにもなりうる。
無数の何かが集まると、時に結び付き合うことがある。結びつきあうことで「結ばれていない」何かが意識されるようになるわけです。
平衡と均衡という観点からすると、あらゆるものが全てバラバラに混在している状況は「平衡状態・均衡」と考えることができます。とするならば、逆に結びつきあうというのは「非平衡・不均衡」と捉えることができます。
結束することで、逆にバランスが崩れてゆく不安定性。結びついたり、離れたりという不安定性も、それが繰り返される循環は安定性が感じられる。
安定の中にある不安定性。循環の中に生命性が内在している。そんなことを思ったのでした。