「育つものはかたちを変える」ということ
今日は『日本のデザイン』(著:原研哉)から「持たないという豊かさ」を読みました。
昨日読んだ内容を少し振り返ると「家の中心・生活の中心」というテーマに触れました。「自分にぴったり合う家」とはどのような家なのでしょうか。どのように見つければよいのでしょうか。そのような問いに対して、著者は「目をつぶって"へそ"を指せばいい」と説きます。
「へそ」とは自分の「生活の中心」のこと。何を生活の中心軸とするのか。料理、運動、楽器、読書、睡眠、入浴など。住まいで過ごす時間には様々な選択肢があります。選んだ中心軸を住まいの中心にする。料理をするならばキッチンを、運動するのであればスペースを、入浴を中心にするならば日当たりの良い場所にバスタブを。
自分の生活の中心と住まいの中心が重なっているかどうか。それが自分にしっくりくる家の選び方。価格、築年数、間取り、最寄駅からの距離など、家の機能を吟味するのはもちろん大切ですが「自己中心の不在」であっては、住まいとの重なりは見出せない。自分の生活を考えることから家探しは始まるんですね。
「自分の生活の中心は何だろう?」という問いは自分と出会い直す機会を与えてくれるのかもしれません。
さて、今回読んだ範囲では「持たない豊かさ」というテーマが展開されていました。
所有の果てを想像できないイマジネーションの脆弱さ
日常生活の中で「もったいない」と口にすることがあると思います。では、「もったいない」という言葉をどのような意味で使っているのでしょうか。「もったいない」を口にしなくてもすむようにできないのでしょうか。
「所有の果てを想像できない消費者のイマジネーションの脆弱さ」という言葉が印象的でした。何かを購入するとき、その先に自分の手を離れる瞬間のことをどれだけ考えているのだろう。
例えば、服について考えてみます。よく着る服、たまにしか着ない服、ほとんど着ない服。最初は「よし、着るぞ!」と思った服なのに、いつしか自然と着る頻度が分かれてしまう。ある日「何だか服が増えたな…」と思って「ほとんど着ない服」を選びはじめる。「何回着たかな…ごめんね…」という一抹の寂しさと言いようのない申し訳なさがこみ上げてくるわけです。他にも、使い切れない台所の調味料などなど。
所有の果てを想像できなかった自分のイマジネーションの脆弱さ。「所有の果てを想像する」ためには何が必要なのでしょうか?
育つものはかたちを変える
初めから所有の果てを想像できる人はいないのかもしれません。所有の果てに生まれた後悔。「もう同じ後悔はしたくない」という内省を経てもなお、後悔を繰り返してしまうとしたら、何を変えるべきなのでしょうか。
注目したいのは「魅力的に味わう暮らしをいかに再興できるか」という言葉です。漆器にかぎらず、所有したものを味わう暮らしをどこまで想像できるか。暮らしの余白を作ることができるか。
余白を作るというのは「自分が所有しているものに意識を向ける時間を作ることができるか?」という問いに言い換えることができそうです。時間には限りがある。だからこそ、何かを新しく所有するときは「既に所有しているものに触れる時間がどれぐらい減るだろうか?」という問いを立てる必要があるのでしょう。
「利用の深度が大事」「育つものはかたちを変える」
味わいは時間の経過と共にやってくる。ふと、松浦弥太郎さんの著書に書いてあって次の言葉を思い出しました。
何かを所有する瞬間は、その物のことをまだ何も知らない。持ち味や魅力を探っていく時間のことまで気にかけているだろうか。所有する瞬間の直感や衝動にあらがって、その先のことにどれだけ想像を働かせているだろうか。
「利用の深度が大事」「育つものはかたちを変える」
大切にしたい言葉が増えました。
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