モノだけを見ていても見えない意味
今日も引き続きミハイ=チクセントミハイ(アメリカの心理学者)による『モノの意味 - 大切な物の心理学』の第3章「家の中でもっとも大切にしている物」より「視覚芸術品」を読みました。では、一部を引用してみたいと思います。
このように、視覚的「芸術作品」が担っている意味の大部分は、美的な価値や経験ではなく、親戚や友人、過去のできごとを思い出させる所有者自身のライフヒストリーと関係している。人びとが家の中の絵画に特別な注意を払うのは、そうすることで思い出や楽しかった関係がよみがえるからである。
孫娘たちが描いたからですよ。彼女たちのいわば手作りです。彼女たちの父親が額に入れてくれたんですよ......孫たちも私が大事にしていることを知っています。最初見たときからそれ(街のシルエットを描いた黄色い絵)がすっかり気に入ってしまったんですよ。色も部屋によくマッチしているし......(これがないと)部屋に調和がなくなりさびしくなります。
それ(ソファの上にかかっている絵)は両親が私たちにくれたものです。両親はソファの上の空間が空いているのを見て、ある日私たちにその空間を埋めるようにこの絵をくれました。そうすることは私の流儀ではないのですが、両親のくれたものなので大事にしています。
これらのきわめて典型的な回答は、いずれも芸術作品が与えると思われる類の経験にふれられていない。しかし、よかれあしかれ、絵画や版画は - たとえ本物ではないさえない複製でも - 愛しむ経験や関係の記号となり、それによって人びとの生活の中に自ら意味を作り上げていくかもしれないのである。
あらためて確認すると、「モノの意味」において「涵養」つまり、人のモノに対する「能動的な解釈過程」が重要であるというのが、本書のメッセージです。そして、それを確認する上で、1977年にシカゴ都市部に住む82家族にインタビューを実施し、「大切なモノとその理由」を整理しています。
絵画に代表される視覚芸術品。
私も何枚か家の中に飾っていますが、どれも大切な作品です。「なぜその絵が大事なのか?」と自問してみると、今回引用したコメントと同じように、その絵の美しさもさることながら、どの作品も一人ひとりが私のために時間をとって心を込めて描いてくださった、その光景が鮮明によみがえるからです。
これは"ビジョン・ペインティング(Vision Painting)"といって、私の心境や受けた印象を、画家の方々が絵として表現してくださったものです。
この作品が描かれた時期は、私がキャリアチェンジをしたばかりの頃。心機一転、新しい環境で一歩を踏み出す時でした。(羽・虹・空)がモチーフとなっていて、描かれた作品を初めて目にしたとき、背中を押して下さるような、スッ...と胸がすくような感覚を覚えました。今でもこの作品を眺めては、その時の光景や感覚が内側から呼び起こされます。
このような原体験から、「人びとが家の中の絵画に特別な注意を払うのは、そうすることで思い出や楽しかった関係がよみがえるからである。」という著者の言葉はもっともだと感じます。
「モノの意味」を探るとき、「モノそれ自体」の特徴や性質に注目することを最初の一歩にしてしまいそうになりますが、その人自身のモノにまつわるエピソード(記憶・経験)を深く掘り下げていくことで、「モノだけを見ていても見えない意味」が自然と内側から湧き上がってくるのではないでしょうか。
私は「見えないモノを見る」という言葉の中に、日常生活の中で忘れがちな大切なことが隠されていると思っています。
以前、友人のデザイナーが「三つの"ミル"」ということを教わりました。
その三つとは「見る・観る・察る」です。
"見る"は文字どおり「目で見る(光を捉える)」こと。
"観る"は「出来事を観察して、その裏側で働いているメカニズムを捉える」こと。
"察る"は「直接的に捉えることのできない何かを感じる」こと。
友人は、"察る"について「感じる(feel)に近いです」と言ってましたが、「佇まい」とでも言うのでしょうか。その"何か"を言葉で表現するのは難しいのですが、そのモノが語りかけてくるメッセージを感じ取る、ということかもしれません。