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コミュニケーション能力は個人の資質?

今日は『わかりあえないことから- コミュニケーション能力とは何か-』(著:平田オリザ)より第7章:コミュニケーションデザインの視点から「話しかける要素」を読みました。

本節の主題は「環境」です。

初対面の人に話しかけるかどうか。どのような時に話しかけて、どのような時は話しかけるのを控えるのか。

これまで見てきた中で「列車の中で話しかけるか否か」は国、文化によっても異なるのでした。

話しかけるか否かの判断は、その個人だけに委ねられるのではなく、その人を取り巻く環境に左右されます。

コミュニケーション能力は個人の資質?

著者は、従来のコミュニケーション教育、演劇教育、国語教育について以下のように述べます。

 従来のコミュニケーション教育や演劇教育、あるいは日本人が等しく受けてきた国語教育では、「旅行ですか?」と発話するのはAさんだから、Aさんの役をやる人間が、どうすればその台詞をうまく言えるかを考えてきた。(中略)丁寧も、きれいも、パワーもスピードも、いずれもAさんの努力、あるいはAさんの資質によるところが大きい。

「コミュニケーション能力」を「その人の資質」として捉えてきたということです。

情感を込めて音読する、演技をする。そのための練習を積み重ね、自身を磨いてゆくことも大切なことだと思います。

しかし、現実のコミュニケーションは、個人が孤絶した空間で成立しているわけではなく、他者との会話という相互作用の中で行われるものです。

その意味で、コミュニケーション能力を「個人の資質」として捉えることは何かが欠けているのかもしれません。

話しかけやすい環境だろうか?

著者は「話しかけやすい環境」について問うことの必要性を説きます。

 しかし、ではCさん役を演じる俳優はどうすればいいのだろう。「話しかけられやすい演技って何?」ということになる。もちろん身体を鍛えてもダメだ。身体を鍛えて頑丈になったら、いっそう話しかけにくくなってしまうから。
 そこで、こういった問題を、関係や場の問題として捉えていこうというのが、九〇年代以降に出てきた新しい演劇教育、新しいコミュニケーション教育の考え方だ。要するに、発話がうまくいかない場合、その原因を個人(ここではAさん)にのみ帰するのではなく、いったい、そこは話しかけやすい環境になっているかを問うていくという考え方だ。

たしかに、会話というのは自分だけではなく「話しかける相手による」ところがあるように思います。

初対面の人に限らず、日常生活の場面を想定してみます。

不機嫌そうだし、何だか怖い。朗らかで、話しかけやすそう。

相手に対する印象や期待も、相手とコミュニケーションするか否か、自分が思ったとおりに伝えることができるか否かを左右する条件になっている。

そのようなこと、ないでしょうか。

コミュニケーション能力は「個人の資質」だけでなく、むしろ、相手との関係性(取り巻く環境)がその発現をさまたげたり、開花させたりする。

「誰と話しただろうか?相手が話しやすい環境だっただろうか?」

そのような問いを立てて1日を振り返ってみる。反省があれば、次の日からあらためてゆく。その積み重ねが、相手とのコミュニケーションをみずみずしいものにしてゆくような気がします。

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