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詩情と至情 〜"言葉"の響きを通じて橋を架ける〜
『簡素な生き方』という本の中で「詩情」という言葉に出会い、この言葉の佇まい、響きに無性に惹かれました。そして、同音異義語を探してみると「至情」が見つかりました。それぞれを辞書で引いてみます。
1. 詩的な情景。「―あふれる夏の高原」
2. 詩に表現されている気分。詩のおもしろみ。「―を解する」
3. 詩を作りたくなるような気持ち。「―をそそる」
1. この上なく深い心。まごころ。「至情をささげる」「至情あふれる行為」
2. きわめて自然な人情。「人間としての至情」
同音異義語、面白いですよね。響きが橋となって、異なる意味の世界を自由に行き来する。詩情と至情。たとえば「詩を作りたくなるような気持ち」と「この上なく深い心」には重なりが感じられます。詩(うた)は生み出すというよりも、深い心から「自ずと生まれてくる」のでしょうか。
「詩の美しさはどこから湧き上がってくるのだろう?」と思うと「あいだ」なんですよね。言葉と言葉のあいだ。限られた数の言葉、簡素さが生み出す世界において、言葉と言葉のあいだに無限が存在している。「あいだ」を言葉を受け取る側が自由につないでゆく。詩が器となって多様な意味を包みながら発展してゆく。
作り手が詩に込めた意味と受け取る側の解釈は異なるかもしれません。その未完性が自由の源泉となっている。「あいだ」は「空(くう)」とも言えますが、「あいだの内実」を見出す心には豊かさがある。空は「無」ではなく、多様な可能性が「在る」ということ。
詩情と至情。それともう一つ、私情。三つの「しじょう」を重ねてゆきたいものです。
若者はみな、家庭生活に不可欠である物理的な仕事や地味な配慮を軽く見ています。これは世間によく見られる悪しき混同、つまり「詩情や美は特定のものにしか宿っていない」という考え方によるものです。文学をたしなんだり、ハープを演奏したりするのは優雅で高尚なことだけれど、靴を磨いたり、部屋を掃除したり、スープ鍋を見張るのはまったく優雅さに欠ける粗雑なことだというわけです。
ハープや箒の問題ではないはずです。すべては、それを握る手、その手を動かす精神にかかっているのです。詩情はそのもののなかにあるのではありません。私たちの心のうちにあるのです。彫刻家が自分の夢を石に刻むように、私たちは対象に詩情を注ぎこまなければなりません。私たちの生活や仕事が得てして魅力に欠けるのは、外から見ると優雅に見えるにもかかわらず、私たちがそこに何も注ぎ込んでいないからです。
こう考えていくと、毎日の生活には、これまで知らなかった美しさや魅力やくつろいだ満足感が隠されているとわかるでしょう。自分自身でいること、自分がいる本来の環境に固有の美しさを実現すること。それが理想です。私たちの使命は、ものごとに魂をこめること。外的なシンボルとして、その善意の魂にどんな粗暴な人でも心打たれるような心地よく繊細な形を与えることです。