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木々、木の葉のささやかな揺れを見ながら、いつしか自分が流れる風に重なってゆく

窓から外の景色を眺めていると、木々が、木の葉が、花が、微かにゆらゆらと揺れている。

そうした小気味よい揺れを眺めていると、いつしか自分の意識は自分を離れて木々へと移ってゆく。そして、流れている風と一つになってゆく。

木々の揺れから風の存在を感じるように、見えているものから見えないものを想像するのが好きだ。

涼しい風に吹かれると「風が流れている」ような感覚になる。

生温い風に吹かれると「風に包まれている」ような感覚になる。

流れには向きがある。

「何か」が流れているとき、その流れている「何か」はどこに向かって流れているのかをどこまで意識しているのだろう。

川を流れる水は自分がどこに向かって流れているのか、を分かっているのだろうか。

人、寿命の存在するあらゆる事物は「誕生してから亡くなる」という方向、流れの中に存在している。

自分を包む流れは一体どのような流れなのだろうか。

流れを感じさせる物事には、どのようなものがあるだろうか。

「鹿おどし」が動いているのを見ると、その愛嬌のなかに、なんとなく人生のけだるさのようなものを感じることがある。可愛らしい竹のシーンの一端に水受けがついていて、それに筧の水がすこしずつ溜まる。静かに緊張が高まりながら、やがて水受けがいっぱいになると、シーソーはぐらりと傾いて水をこぼす。緊張が一気にとけて水受けが跳ねあがるとき、竹が石をたたいて、こおんと、くぐもった優しい音をたてるのである。

山崎 正和『混沌からの表現』

見ていると、単純な、ゆるやかなリズムが、無限にいつまでもくりかえされる。緊張が高まり、それが一気にほどけ、しかし何ごとも起こらない徒労がまた一から始められる。ただ、曇った音響が時を刻んで、庭の静寂と時間の長さをいやがうえにもひきたてるだけである。水の流れなのか、時の流れなのか、「鹿おどし」はわれわれに流れるものを感じさせる。それをせきとめ、刻むことによって、この仕掛けはかえって流れてやまないものの存在を強調しているといえる。

山崎 正和『混沌からの表現』

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