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やわらかさ・あたたかさ・つながり

今日は『触楽入門 -はじめて世界に触れるときのように-』(著:テクタイル)から「落ち込んだときは、やわらかくて、あたたかい、テディベアに触れてみよう」を読みました。

少し昨日読んだ内容を振り返ると、「視覚と触覚は同期して錯覚を起こす」というテーマにふれました。

つい立てを隔てて自分の手とゴムで作られた手のサンプルを対置しておきます。そのサンプルの手に何かをあててみると、あたかも自分の手に触れられたかのような錯覚が起こる。たとえば、サンプルの手に氷をあててみると自分の手もヒンヤリと感じられたり、筆でなでてみると自分の手がなでられたような感覚になる。

これは、視覚情報が触覚情報に変換されることで生じる錯覚です。視覚と触覚が同期するのです。麻酔で感覚をマヒさせた手を触れてみても、感覚神経における情報伝達は行われないはずなのに、脳が視覚情報を触覚情報に変換することで触れられている感覚がするとの実験結果も紹介されていました。

身体はとても不思議だと感じます。「身体とは何だろう?」という問いを立てたとき、身体は必ずしも物質的な肉体だけを意味するのではなく「物質的な肉体と知覚(精神)の総体」なのだとあらためて感じたのでした。

さて、今回読んだ範囲は「触感の心地よさと受容されている感覚」というテーマが展開されていました。

やわらかさ・つながりの感覚

「受容されている」とはどのような感覚なのでしょうか。シンガポール国立大学のジェイ・ナラヤナン博士が、子供たちがテディベアを好むという日常的な現象に注目したことが紹介されています。

テディベアは、柔らかく、暖かく、そしていつ触れても受け入れてくれます。中性的な顔立ちで、笑っているようにも、寂しげな顔のようにも見える。テディベアは、受容のメタファーです。そこでナラヤナンらは、テディベアに触れることで疎外感が癒されるのではないか、という仮説を立てました。

テディベアに触れることで疎外感が癒される。「ふんわり」とした柔らかさに包まれると、どこかホッとするような心地になりますよね。たとえば服の生地の質感も肌になじむように柔らかいとどこか安心します。

そういえば、スヌーピーの登場人物の一人であるライナス君も「毛布」を肌身離さず持っていますよね。安心感があるのだそうです。このホッとする感覚は「受け入れてくれている(孤立していない)」という感覚に近いのかもしれません。

これを裏付ける実験が紹介されていました。パーソナリティ・テスト(性格診断テスト)を行い、一方のグループには「将来、あなたは社会から認められます」、もう一方のグループには「将来、あなたは社会的に孤立してしまう」というフィードバックを与えます。テストの後で、テディベアに対して支払う金額に違いあるのかを調べたそうです。

実験結果は、次の通り。「社会から認められる」と言われたグループでは、触感のありなしにかかわらず、テディベアに支払いたいと思う金額に違いはありませんでした。一方で、「社会的に孤立する」と言われたグループでは、テディベアに触れた被験者のほうが、支払いたいと思う金額が高くなりました。自分に自信がなくなり、不安感が高まったときに、ある種の救いとして触感が求められたと想像できます。

支払いたいと思う金額の違いは何を意味するのでしょうか? パーソナルテストの結果を信じて「将来孤立するのだろうか」という気持ちがテディベアにふれたことで和らぐ。その安心感が「テディベアは自分にとって大切な存在だ」という関係が生まれた、ということなのでしょうか。

皮膚を通じてつながりを実感すること

著者は「心地よいものに触れると気持ちが落ち着く」ことについて、次のように述べています。

人から触れられたり、心地よいものに触れたりすることで気持ちが落ち着くのは、「他者が自分を受け入れてくれている」という感覚を、皮膚を通して具体的に確認できるからではないでしょうか。洋服はもとより、触感のよいものを選びたいという気持ちの背後には、「受け入れてもらいたい」という根源的な欲求が隠れているのだと思います。

「他者が自分を受け入れてくれているという感覚を、皮膚を通して具体的に確認できる」

この言葉にハッとしました。心地よいものにふれるとやはりホッとします。そのとき自分に「受け入れてもらいたい」という気持ちがあるのかは正直分りません。

「受け入れられている」という感覚は「誰かとつながっている」という感覚と極めて近いと思います。人は色々な存在とつながることができるのだな、と感じます。人とつながるだけではなくて、モノとつながることもできる。

「柔らかさとつながりの関係性」「身体を通したつながりの実感」

大事にしたいキーワードがまた増えました。

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