自分の一部としての「物」
今日も引き続きミハイ=チクセントミハイ(アメリカの心理学者)による『モノの意味 - 大切な物の心理学』の第2章「物は何のためにあるか」より「社会的統合シンボルとしての物」を読みました。では、一部を引用してみたいと思います。
たいていの文化で、人間の絆を創り出す最善の方法のひとつは贈答である。このテーマに関する古典的研究はでは、物の交換を通してどのように対人関係が強化されるかを探っている。
しかし、さしあたりマオリ族の慣習においては、物によって築かれたこの絆が、実際のところ人と人との絆であることは明らかである。なぜなら、物自体が人であるか、あるいは物自体がある人に属しているからである。したがって、ある物を与える行為は、自己の一部を与えることにほかならない......私たちが見てきたことから、確実に次のことが言える - この観念体系において、人は現実に自分の本質や存在の一部であるものを分け与え、一方何かを受け取ることは、ある人の霊的本質の一部を受け取ることである......与えられた物は、非生命物ではない。それらは生きたものであり、しばしば人格を備え、元の部族やふるさとにそれに代わるべき同等のものをもたらそうとする。(Mauss, 19671925), p.10)
もし贈答が相互的なものだとすると、当事者間にある一定の絆が生まれる。なぜならば、交換されたものは隠喩的な結びつきではなく、現実のエネルギーとなるからである。つまり私という存在のある一部が、相手の一部としてその人に与えられたのである。おそらく贈答は、人びとのあいだに問題が生じたときに必要となるだろう。人は、具体的で永続的な存在の記号を必要とする。しかしながら、それらが本来の意味から切り離された場合、贈答物は容易に操作され、見せかけの関係をあらわすにすぎない。
「なぜならば、交換されたものは隠喩的な結びつきではなく、現実のエネルギーとなるからである。つまり私という存在のある一部が、相手の一部としてその人に与えられたのである。」
この言葉が印象的でした。
様々な文化において、贈答(贈与)という営みが人と人の絆をつくることに寄与している。あらためて「贈与が絆を生み出す源泉は何なのだろう?」という問いを考えてみたいと思いました。
著者の言葉にある「私という存在のある一部が、相手の一部としてその人に与えられた」という点に注目すると、目に見える形で、しかも「物」として「自分が相手から受け取ったという事実」が残り続けること。
「物」を眺めるたびに相手の表情、その場の雰囲気が思い起こされる。物に記憶が宿るというか、相手が宿っているような気がする。その感覚を「絆」と称しているのかもしれません。絆の源泉の一つは「記憶」にありそうです。
マルセル・モース(文化人類学者)が述べている「与えられた物は、非生命物ではない。それらは生きたものであり、しばしば人格を備え、元の部族やふるさとにそれに代わるべき同等のものをもたらそうとする」という言葉にも通じる気がします。
一方、その贈答も相手に対して「あとでお礼(返礼)をしなければ」という気持ちを抱かせてしまうならば、その「記憶」は「負い目」に姿を変えてしまう。
あらためて「相手に負い目を感じさせない」形で贈り物をする、ということが健全な絆を育む条件のように思いました。負い目を感じさせないためには受け取り手の気持ちを想像する、相手のことを理解することが必要ですが、それが難しいのですよね。
時に争い、時につながり。人類は「絆」の作り方を模索し続けているのかもしれません。