「人がモノっぽくならない」ためには何が必要なのだろう。
今日は『ソーシャル物理学 - 「良いアイデアはいかに広がるか」の新しい科学』(著:アレックス・ペントランド)より「人々の集団を測定する」「エンゲージメントと生産性」を読みました。
エンゲージメント(繰り返される協調的交流)を成功させるためには、交流のパターンに注目するとよいのでした。グループ内での交流が公平に行われている状態が望ましく、逆に言えば、特定の誰かに発言や発信が偏っている状態ではエンゲージメントは上手くいかないのでした。
著者曰く、女性は社会的シグナルを受信する力に優れているとされ、女性が多いグループでエンゲージメントが成功しやすいとのこと。社会的シグナルとは、相手のメッセージを読み取ろうとする力であると捉えれば、それは、男女問わず「感受性・共感性・理解力」に優れているとも言え、「傾聴する力があるか否か」で測ることができるように思います。
きちんと油がさされた機械のように感じられる企業、複雑な部品が完璧に組み合わさって機能している企業。前者は「潤滑油」の役割を担う人、つまりコーディネーターが不可欠であることを意味し、後者は「潤滑油」の役割を担う人がいなくても、個人個人が自律的に他者とコミュニケーションを取りながら集団としてまとまっている。例えるならば、前者はオーケストラ的で後者はジャズセッション的な集団ではないか、と思いました。
著者の「個人と個人のつながりを通じて、アイデアの収集や拡散を行なっているのだろうか?」という問いかけについてはYesだと思います。但し、情報技術の発展によって、言語化・可視化された情報が瞬時に伝播され、履歴として蓄積されていく昨今、直接的な対話を通じて情報やアイデアが伝播する割合は下がっているのかもしれません。
不特定多数の人に対して情報やアイデアを拡散するには文字が優れていると思う一方、直接的な会話から得られる情報は「厚みを持った具体的な経験」としての深みがあります。
私は過去にコールセンターで働いた経験がありますが、その際は休憩時間がバラバラでした。一人になる時間が長く、他のメンバーの話を聞いたり喜びや悩みを共有する時間は少なかったように思います。ちょっとした雑談は、息抜きになるだけでなく、意味のある情報やアイデアの宝庫だったと今でも感じています。
メンバー間の交流が少ない職場はやはりどこか活気がなく、人がモノっぽくなる印象があります。いわゆる標準化されて「誰でもできると思われている仕事」であっても人それぞれに得意・不得意があります。だからこそ人と人の交流、相互支援は標準化の隙間を埋めてゆくような役割があるのではないか。そのように思うのです。
「人がモノっぽくならないようにするためには何が必要なのだろうか?」という問いは私の中で考えるに値する問いです。そもそも人がモノっぽいとはどういうことか、も含めて。
個人単位ではなくチーム単位で休憩を取る。非公式な交通量を増やす。
こうした取り組みはエンゲージメントを高めるのに有効だという実感があります。但し、書かれていない前提がいくつかあるように思います。たとえばチームの一体感、自由度です。
「チーム単位で休憩を取る」というイベントを取り上げた時、メンバー全員が進んで(嫌々ではなく)一緒に時間を過ごそうと思えるかどうか。また「時には一人で過ごしたい」気持ちをどれだけ許容できるか。バラバラすぎては交流は生まれませんし、つながりすぎても窮屈さが生まれてつながりが壊れる力として作用する。程よく緩やかで、程よく緊密なつながりを作る。
リモートワークへの移行が進んでいる昨今ですが、オンラインであっても、オフラインであっても「交流に費やした時間がどれだけあるか?」を細かい頻度で測定して、つながりを感じ続けられる(=孤立していない状況を作ること)が、エンゲージメントを成功させる観点で重要ではないでしょうか。