技術の進歩の裏側には「人の存在」がある
今日は『日本のデザイン』(著:原研哉)から「移動への欲望と未来」を読みました。
昨日読んだ内容を少し振り返ると「制約とコンセプトが想像力の源泉」という話にふれました。著者は「JAPAN CAR 飽和する世界のためのデザイン」展を企画・構想したメンバーの一人です。同展示会は2008年、2009年にパリとロンドンで開催されたもの。「小ささ・環境技術・移動する都市細胞」という3つの切り口で、クルマを通して見えてくる「日本に通底する世界観」を示すものです。
窮屈さを感じさせず、快適な空間を実現しながら車体をコンパクトにする。車体のコンパクト化に加え、エネルギー効率を徹底的に高めることで環境への影響を最小限にする。これはクルマの乗り手だけでなく、乗っていない人に対しても等しく配慮することの現れでもある。そして、クルマは都市という身体をかけめぐる細胞のように円滑な流れとなって人を運んでいく。人が流れるということは生命を運んでいるということ。代替できない物質と情報の運び手でもある。
そして、展示会では「目に見える車体の構造と目に見えない空間」に光を当てるように、車体の模型の色はすべて白で統一されていた。それは展示を見る側に想像の余地を残すことでもある。また、「盆栽」が自然と人為の交感、緻密で凝縮感のあるテクノロジーの象徴として展示され、クルマとの共通項として日本に通底する価値観がにじみ出てくる構成となっている。
クルマはじつに多様な要素からなる構造物だけれど、真に焦点をあてるべき要素以外の差異を縮めることで、差異が浮かび上がってくる。色を白に統一するというのはまさにその一例。「制約とコンセプト」は作る者、見る者、使う者の想像力をかき立てると感じたのでした。
さて、今回読んだ範囲では「移動の未来」というテーマが展開されていました。
技術の進歩の裏側には「人の存在」がある
自動車も移動のあり方を変えてきたように、進歩した技術が社会に浸透し、世界はその様相を変えていきます。そのような中、著者は「技術のみが環境を変えるのではない」と説きます。
人は未来に何を求めるのだろうか。たとえば移動の未来を考えるとき、技術の進歩や素材の革新だけからこれを想像するのはナンセンスだ。技術のみが環境を変えるのではない。技術の進展は確かに大きな要因であるが、そこにはこうありたい、こんな風に移動したいという人間の欲望が、大きなドライブをかけている。
「技術とはなんだろう?」と考えてみると、技術はそれ自体がネットワーク的というか、様々な領域で深化した知を相互に見つけあい、結びついて自己成長を続ける運動のようなものだと感じます。
「こんな風に移動したい」という人間の欲望が、「移動の未来」に向かってドライブをかけている。著者の言葉を「技術という運動」に重ねてみると、人の好奇心や意志が「知の探索と深化」を促していて、その好奇心や意志は「将来こうありたい」という未来像に根ざしている。技術の進化の裏側にはそこに関わる人の存在があること。案外忘れがちだと思うのです。
概念を多面的に捉える
移動に対する人々の欲望が社会のあり方を変えていく。著者は「全ての移動技術が歩行の自在性に近づくはずだ」と説きます。
都市部では、全体制御により渋滞が緩和され、排ガスの問題も軽減する。運転免許は特殊なクルマに限定される。常に孤独に魅せられる若者たちは「一人用マシン」に注目しているかもしれない。自転車や一人用ビークルは新しい移動の流行を作るだろう。全ての移動技術は速度を別にすれば「歩行」の自在性に近づくはずだ。
自転車や一人用ビークルが例示されていますが、「移動技術が歩行の自在性に近づく」とはどういうことでしょうか。少し考えてみたいと思います。
歩いてどこかに向かう。どの道を通ってどれぐらいの時間をかけて行くかは自分で自由に決めることができます。誰かとクルマに乗っていたとしたら、その自由は制限を受けることになるかもしれません。早くたどりつきたい、安全に運転してほしいなど。
自分一人だからこそ身軽に移動できる自由を拡張する。一人用マシンが普及したとすれば、その未来はどのような世界なのでしょうか。
産業全体としては「乗用車/商用車」のような区分ではなく、「ドライブ/モバイル」「都市/自然」「パブリック/パーソナル」というような要因が、新たな領域区分として意味を持ちそうである。(中略)仮想と構想、そしてその可視化こそデザインの本領だと考えるからだ。
「乗用車/商用車」ではなく「ドライブ/モバイル」「都市/自然」「パブリック/パーソナル」などの観点から移動を構想する。
「ドライブ」は人が「主体的に運転」に関わるのに対して、「モバイル」は「スムーズな移動」への合理性追及に主眼が置かれている。「モバイル」の世界では完全自動運転を思い浮かべてみると、運転に振り向けていた意識や時間が解放されて自由になります。移動時間の質的転換が伴っている。
「都市/自然」という軸。自然に浸るためのツールとして位置付けた場合、クルマは移動手段を超えて居住空間になっているのかもしれません。そして自然の中でどのように過ごしているのか。その想像こそが移動に対する欲望の源泉なのだと思います。そして、その想像の源泉は「自然の中で過ごした原体験」なのではないか。テクノロジーが拡張してゆく種は自分の原体験。
「パブリック/パーソナル」という軸。移動の空間・時間を他者と共有するのか、あるいは自分だけのものとするのか。その違いだと捉えました。初めに「パブリックな移動」という言葉にピンとこなかったのですが、街を歩いたり、乗り物に乗るときのことを想像してみると、自分が他者と時間と空間を共有する移動は「パブリックな移動」だと思えました。逆に、パーソナルな移動とは「他者の制約を受けない移動」と言えるのではないか、と。
物事を多面的に捉える。概念すらも多面的に捉える。「移動の未来」という切り口から著者に大切なことを教わりました。