人びととは、彼らが注意をそそぐものであり、彼らが大切に使用するものである。
今日はミハイ=チクセントミハイ氏(アメリカの心理学者)による『モノの意味 - 大切な物の心理学』の第1章「人間と物」から「物の本質」を読み終えました。では、一部を引用してみたいと思います。
授与の本来の意味は、関連する資質を授けるという意味の「着せられる」ことを指していた。しかし、今や近代資本主義において、このことばは、その見返りを得るためにお金や時間を投資するという意味になっている。したがって、旧い意味の方が、期待した見返りではなく、与えるという根源的な意味に近かったのではないだろうか。そして、私たちがこのことばを使うときは、この旧い方の意味である。
世界のさまざまな物には人間生活を安定させる機能がある。そして、それらの客観的実在は、人間が常に変化しつつある性質を持ちながら......いつもの椅子、いつものテーブルにかかわることで、同一性すなわちアイデンティティを回復させることができるという事実のうちにある。換言すると、人間の主観性に対立しているのは、手つかずの自然という大いなる中立性ではなく、人工世界の有する客観性である......人間と自然とのあいだの世界がなければ、永久運動は存在しても客観性は存在しない。(Arendt, 1958 p.137)
この単純なポイントをめぐる混乱の好例が、今日のアメリカの銃規制をめぐる論争によくあらわれている。銃擁護派のスローガンは「銃が人を殺すのではない、人間が殺すのだ」である。ここでは、物の中立性が前提となっている。すなわち人間の意図は、使用する物と無関係なまま実行に移されるというわけである。言うまでもなく、われわれの立場は正反対の結論に到達する。抽象的な「人びと」が存在するわけではない。人びととは、彼らが注意をそそぐものであり、彼らが大切に使用するものである。家に銃を置く人間は、その事実によって、そうでない人間と異なる。
「抽象的な「人びと」が存在するわけではない。人びととは、彼らが注意をそそぐものであり、彼らが大切に使用するものである。」
この言葉が印象的でした。
著者は「人間と物の関係性」を考察する上で「そもそも人間とは何か?」「そもそも物とは何か?」という問いを立てる、つまり人間と物を定義することから始めているのでした。
「抽象的な人びとが存在するわけではない」という著者の言葉から、自分が暗黙のうちに表情のない抽象化された「人間」を考えていることがはたしてどれだけあるだろうか考えました。
人について考えるとき、やはり個別具体的な人。表情のある人のことを自然と思い浮かべているような気がします。
その上で「人びととは、彼らが注意をそそぐものであり、彼らが大切に使用するものである」という言葉がとても新鮮で、その表情のある人が、どんな物に囲まれていて、どんな注意を向けているのか。その物に囲まれるとき、その人からどのような表情がにじみ出るのか。何を大切にしているのか。
ハンナ・アレント(社会哲学者)の『人間の条件』から引用された次の言葉「世界のさまざまな物には人間生活を安定させる機能がある。そして、それらの客観的実在は、人間が常に変化しつつある性質を持ちながら......いつもの椅子、いつものテーブルにかかわることで、同一性すなわちアイデンティティを回復させることができるという事実のうちにある。」にも通じるな、と思います。
つまり、自分のアイデンティティが物との関わりの中に埋め込まれているのではないか、ということです。
例えば衣服を身にまとうとき、そこには自分の内面性が投影されているのかもしれません。落ち着く服、自分を格調づける服、周囲にとけこみ同化する服。
「授与の本来の意味は、関連する資質を授けるという意味の「着せられる」ことを指していた。」と著者は述べていますが、物にはそれこそ「何か」を体現するシンボルとしての役割があって、それは人が主観的に決めている。
物の物理的な側面と意味的側面。意味的側面は社会で共有されてゆくと、文化的側面になる。
これからも「物とは何だろう?」という問いに都度立ち返ってみたいな、と思ったのでした。