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美意識を「枠・方向性」として捉えてみる
今日は『日本のデザイン』(著:原研哉)から「暮らしのかたち」を読みました。
昨日読んだ内容を少し振り返ると「阿弥とは何か」というテーマに触れました。観阿弥、世阿弥、立阿弥、能阿弥、善阿弥…。一度は聞いたことのある名前だと思いますが「阿弥」と付いた人々の総称を「阿弥衆」と呼びます。共通している「阿弥」とは何を意味するのでしょうか。
著者は「阿弥とは、やや乱暴にたとえるなら、優れた技能や目利きの名称に付す「拡張子」のようなものだ」と述べていました。観阿弥、世阿弥は能、立阿弥は立花(いけばなの室町時代に成立した最も古い様式で多種多様な草木により大自然の風景を表現)、能阿弥は美術品の目利き、善阿弥は作庭。
拡張子とは電子ファイルの種類を識別するものなので、「阿弥」は「どの道で秀でているのかを識別するもの」と言えそうです。そして、足利義政のように美のディレクターのもと、センスにしたがって自由に表現をしていく。そのような交わりのあり方に何とも惹かれるのでした。
さて、今回読んだ範囲では「暮らしと美意識」というテーマが展開されていました。
美意識を「方向性・枠」として捉えてみる
日本に通底する繊細、丁寧、緻密、簡潔といった成熟した美意識。文明開化以降の急速な近代化、そして高度経済成長を経験した日本ですが、グローバルで見れば中国が日本を追い越し経済の中心となっています。
そのような中、著者は「一国の文化の価値は、いかにたくさんの工業製品を作るかで決まるものではない」と述べます。
しかしながら、一国の文化の価値は、いかにたくさんの工業製品を作るかで決まるものではない。(中略)富を所有するだけでは幸福になれない。手にしているものを適切に運用する文化の質に関与する知恵があってはじめて人は充足し、幸せになれる。勿論、貧しさや行きすぎた貧困は問題であるが、工業生産もマネーゲームもふんだんに謳歌し、その酸いも甘いも、身をもって体験した経験を生かして、世界の経済文化の未来を広く見さだめていく姿勢が求められるはずだ。しかしこの場合、あまり近い未来を見てはならない。太古の歴史に遡って現在を見通し、五十年くらい先の未来を見る感覚が大事なのだ。
「富を所有するだけでは幸福になれない」という著者の言葉が印象的です。仮に富を得たとして、それをどのように運用していくのか。適切に運用するためにはある種のスキルも必要だと思います。
注目したいのは「文化の質に関与する知恵」という言葉です。文化の質とは何を表すのでしょうか。そもそも「文化とは何か」という問いが根底にあるわけですが、それは「日々のくらしのあり方」と言い換えることができるかもしれません。
自分と他者がどのように触れあうのか。他者と他者がどのように触れあうのか。その触れあいはどのような環境のもとで成立するのか。そのときの環境はどのような要素、関係から構成されているのだろうか。
その問いに対する答えは「論理」で導かれるものなのでしょうか。おそらくそうではなくて起点になるのは「感性」なのだと思います。そして「感性」に端を発するということは、多様な解が存在するということ。但し、乱雑な多様さというより、一定の方向性・枠を持っている。その枠・方向性の源泉が「美意識」ではないか。そのようなことを思ったのでした。
美意識とは、ある意味でコンセプトをさらに抽象化したもの、コンセプトに通底する基盤のようであるとも言えるかもしれません。
「身のまわりの流れを整える」ために簡素にする
著者は「家については本来、日本人はもっと高度な美意識を発揮していいはずである」と述べます。
まずは「暮らしのかたち」すなわち「住まい」のヴィジョンから話を始めたい。「住まい」とは、端的に言えば「家」である。「家」については本来、日本人はもっと高度な美意識を発揮していいはずである。
「家において高度な美意識を発揮する」とはどういうことなのでしょうか。著者はさらに続けます。
ところが一般の家庭ではどうか。門の格子戸をくぐると敷石が並び、上がり框の踏み石で履物を脱ぎ、掃き清められた簡潔な座敷の床には軸が掛けられ、季節の花が活けられている、と言いたいところだが、残念ながらそうではない。そういうところが無くもないが、もはや現代の日本の住まいの現実は「公団住宅」か「マンション」のようなかたちに変容し、人々は溢れるほどの物に囲まれて暮らしている。日本は明治維新で大きく西洋化に舵を切ったけれども、庶民レベルの住宅においてはなかなか近代化、西洋化とはいかなかった。「暮らしのかたち」というからには庶民の家が基準になる。
公団住宅、マンションという言葉が並びます。ふと「MONO」という言葉が浮かびました。MONOとは「単一の」という意味ですが、「画一的」というニュアンスもあります。
その中で様々なモノに囲まれて暮らす。たしかにそうかもしれません。一方「断捨離」や「ミニマリズム」という言葉が流行したように「簡素さ」を求める動きもあります。
「富を所有するだけでは幸せになれない」という著者の言葉を「物を所有するだけでは幸せになれない」として富を物に言い換えてみます。つまり、物質的充足はある程度までは幸福度向上に寄与するかもしれないが、いつかは飽和してしまうとも捉えることができます。
簡素にする、囲まれる物を必要最小限とすることで余白が生まれ、物との関わりが増えてゆく。人とモノ、人と人、モノとモノ。間に生じる相互作用の流れの中で人は幸せを感じるのかもしれない。身の回りの流れを整えるために簡素にする。そんなことを思ったのでした。