「複雑である」とは一体どういうことだろう〜"ありのままをありのまま捉える"ことの萌芽〜
「複雑である、とは一体どういうことだろう」
ひんやり冷たい空気が満ちた朝。澄み渡る空の青さに導かれるように歩いていると、ふと問いが降りてきた。
なぜこうした問いが降りてくるのか自分でも分からず、とても不思議ではあるのだけれど、戸惑いというよりも「あっ、今が考え時なのかもしれない」という清々しい気持ちだった。
もともと自分の内側で眠っていた問いの種が、芽吹く時を今か今かと待ちわびていた。そして、その種が空の青さ・美しさに導かれるように、ついに芽を出したのかもしれない。
「言葉」という意味の器、受け皿を作った先人への尊敬の念に堪えません。
「複雑」という言葉は「複」と「雑」に分かれます。
「複」は「二つ以上」を意味し、要すれば「沢山」ということ。「雑」は「雑多・雑念」などの言葉もあるように「様々」ということ。
複雑の対義語である「単純」も同様に分解して考えてみます。
「単」は「一つ」を意味し、「純」は「混じり気がない。ありのまま。偽りや飾りがない」を意味します。
また、こう思うのです。
私たちは無意識のうちに、単純な物事は「見通しがよい」と感じる一方で、複雑な物事は「見通しが良くない」と感じているのではないか、と。
「単純」と対比してみると「複雑」の意味、あるいは印象は「秩序の程度」という尺度で測ることができるかもしれません。
単純は秩序(見通しの良さ)に、複雑は無秩序(見通しにくさ)に対応するのではないか、と。
どこからが単純で、どこからが複雑であるのか。
ふと、物事の構成要素は無数にあっても「見通しが良い」と感じている時、その物事は「単純」とみなしても、表現しても差し支えないのでしょうか。
もし差し支えないのであれば、それは「複」を「単」として捉えているわけで、その過程に「ありのままをありのまま捉える」ことの萌芽を見出せるように思うのです。