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「複雑である」とは一体どういうことだろう〜"ありのままをありのまま捉える"ことの萌芽〜

「複雑である、とは一体どういうことだろう」

ひんやり冷たい空気が満ちた朝。澄み渡る空の青さに導かれるように歩いていると、ふと問いが降りてきた。

なぜこうした問いが降りてくるのか自分でも分からず、とても不思議ではあるのだけれど、戸惑いというよりも「あっ、今が考え時なのかもしれない」という清々しい気持ちだった。

もともと自分の内側で眠っていた問いの種が、芽吹く時を今か今かと待ちわびていた。そして、その種が空の青さ・美しさに導かれるように、ついに芽を出したのかもしれない。

「言葉」という意味の器、受け皿を作った先人への尊敬の念に堪えません。

「複雑」という言葉は「複」と「雑」に分かれます。

「複」は「二つ以上」を意味し、要すれば「沢山」ということ。「雑」は「雑多・雑念」などの言葉もあるように「様々」ということ。

複雑の対義語である「単純」も同様に分解して考えてみます。

「単」は「一つ」を意味し、「純」は「混じり気がない。ありのまま。偽りや飾りがない」を意味します。

また、こう思うのです。

私たちは無意識のうちに、単純な物事は「見通しがよい」と感じる一方で、複雑な物事は「見通しが良くない」と感じているのではないか、と。

「単純」と対比してみると「複雑」の意味、あるいは印象は「秩序の程度」という尺度で測ることができるかもしれません。

単純は秩序(見通しの良さ)に、複雑は無秩序(見通しにくさ)に対応するのではないか、と。

どこからが単純で、どこからが複雑であるのか。

ふと、物事の構成要素は無数にあっても「見通しが良い」と感じている時、その物事は「単純」とみなしても、表現しても差し支えないのでしょうか。

もし差し支えないのであれば、それは「複」を「単」として捉えているわけで、その過程に「ありのままをありのまま捉える」ことの萌芽を見出せるように思うのです。

人は、特別の感情に浸っているときには、それが一般には恐ろしい激流であっても、その水を、たくましく、好ましいものとして接するという。G・バシュラールが示す海の荒波に対するイメージがこの例である。「白いたてがみの馬のように - 持ち上がった波が怒りたけって跳ねたとき、- 色蒼ざめた髪をふりみだし、彼女は砂浜へ走って行った、そしてそこで、嵐の精霊さながら、彼女はおのれの呼び声を嵐の喧騒にかきまぜたのだ。(中略)」(ジュール・サンドー、『マリアンヌ』)。

鈴木信宏『水空間の演出』

ここでは、荒々しく、激しい海の波頭は、人の接触できる距離にある。にもかかわらず、水への感情は、恐れではなくて情熱である。これは物理的要素の客観的な特徴だけでは、説明しきれないところである。荒波や、そのしぶきは、美にもなる。『土佐日記』では、海が荒れる様を、「海岸には波の雪が降り、並みの花が咲いている」と描写している。『更級日記』には、「外の海はたいそうひどく荒れて波が高くて、……波のよせはかえすのも、まるで色とりどりの玉の飛び散るように見え」とある。さらに、山間を流れる谷川の湧き立って流れ行く水を「水晶を散らすようにはね返る」という。『百人一首』には、「和田の原、こぎ出でみれば久堅の くもゐにまがう興津白波」とある。また、『伊勢物語』では、二〇丈の高さから流れ落ちて飛散する滝の水を、「美しい白玉が絶え間なしに散りかかってくる」と表現している。

鈴木信宏『水空間の演出』

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