しとしと雨の道、ときどき情報量(少なすぎても、多すぎても意味は浮かび上がらない)
本を読んでいると、本の内容とは全く関係ないように思えることが頭の中で並走するように思い浮かんでいることがある。本の内容が頭に入ってこないのではなく、記された言葉を触媒として無意識の奥底から自然と引き出されてきたような、そんな感覚がある。微弱な信号でも環境に含まれるノイズと時に共鳴して強い信号として検出される確率共鳴(stochastic resonance)という現象を想起させる。実は人のアタマの中では確率共鳴が起こっているのかもしれない。
さて、先日はしとしと雨の降る道の水たまりを通して浮かび上がる凹凸が、歩むべき道のりを示しているように思えるから、しとしと雨の降る道も案外好きだと述べた。道の肌理は大切な情報であり、それを手掛かりに能動的に意味を引き出そうとしている。
「認知とは継続的な探索プロセスと等価である(Perception is equivalent to an ongoing exploratory process)」や「環境は意味の海である」という言葉の意味をアタマではなくて、身体的経験を通して体取した気がした。そんなことを綴った。
ふと「情報とは何だろう?」という問いが浮かび、積み上がっていた書籍『情報理論』(著:甘利俊一)に手を伸ばす。冒頭に次のように述べられている。
「そもそも情報とは何かを一般論的に論ずるのはむずかしい」ということをカッコに入れて、私たちは日常生活の中で「情報」という言葉を軽やかに使っている。
情報には様々な種類、形態、価値がある。人それぞれ自分が思う「情報」を扱っている。では、私にとっての情報とは何だろう。そう思うと、このnoteの冒頭で述べた「道の肌理は大切な情報」という言葉がある。この私事としての情報という言葉をイメージしながら、「情報理論が取り扱う情報とは何か?」という問いに進んでゆく。
「情報とはわれわれに何事かを教えてくれるものであり、われわれの不確実な知識を確実にしてくれるものである」
ああ、まさにしとしと雨の降る道のことだ…。しとしと雨が降る道の凹凸、道の肌理は何を教えてくれたのか。「この場所は水がたまっていないよ」ということだ。では、不確実な知識とは何か。「なるべく足元を濡らさずに歩ける場所はどこだろう?」という、道に関する知識が不確実だ。つまり、舗装された道はなめらかにつながっていて、それこそ足の踏み場の組み合わせは無限大だ。雨が降る前はどこに歩を進めても価値は同じ(等価)であり、歩くのに適している意味での道の価値は「一様に分布している」と言える。
しとしと雨が降るとどうだろうか?道の凹凸、肌理が鮮やかに浮かび上がり歩くのに適した場所、適していない場所が分かれてくる。これは道の価値の分布が一様ではなく「まばらな」分布に変化した("雨で条件付けられた")とも言える。
見方を変えれば、雨が降る前の道というのは、歩みの可能性が無数にある「無秩序」な状態で、雨が降ることで足の踏み場として適した場所が点として浮かび上がり、それらが線となって道として連なる「秩序」のある状態に変容したとも言えるかもしれない。しとしと雨がもたらした道の肌理から、「情報は無秩序で混沌とした状態に秩序をもたらすもの」という捉え方ができるのかもしれない。
もう少し思考を進めてみると、「雨は全然降らなくても・降りすぎても情報の量は減ってしまう」ということがわかる。全然降らないときは既に述べたとおりだけれど、雨が土砂降りの時も道が冠水してしまえば、一面水浸しとなって道の凹凸・肌理の違いは浮かび上がってこない。一面に水が張ってしまうと道の肌理は水という物質の肌理へと変化し、水の肌理がどこでも一様だから、雨で冠水した道は無秩序で混沌としてしまう。
花に水を与えなくても、与えすぎても枯れてしまうように。「差異としての情報」が浮かび上がるきっかけとなる何かを「適切な量」だけ与えることが大切だということ。
文字や映像、音声など。そうしたメディアを一様に「情報」と一括りに表現してしまうことが多いように思うけれど、本当はそうしたメディアが「どのような変化・差異を作り出しているのか」そして「その変化は私に何をもたらすのか(環境という意味の海から、どんな意味を引き出すか)」が重要なのではないか、と思う。
媒質(medium)・物質(substance)・表面(surface)。これらは環境という意味の海から情報を引き出すためのカギ。水や光という媒質を通して、道という物質の表面(肌理)の違いから、私は自分に有用な意味を引き出していたのだと直感した。
話は長くなってしまったけれど、みずみずしい身体的な経験を色々な角度から眺めてみると、そのみずみずしさが増して豊かなものになっていくんだ。そんな喜びを分かち合いたい。分かち合おう。