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日常生活のリズム〜色々なモードとリズムを混ぜ合わせてゆく〜
半年ほど前に「あきない」について書きました。
日本語のよいところは「同音異義語」が豊富なことだと思います。読み方、つまり音をつながりとして、全然違う言葉、概念の距離が縮まるような瞬間が訪れる面白さ、喜びに満ちています。
自分の中にあれこれと集めておいた言葉と言葉のあいだに、ふとした瞬間につながりが見える、言ってみれば「ことば遊び」が好き、というよりも飽きないんです。
このつながりが見える瞬間、不思議な感覚なんですが「つながる」というのは「結ばれる」ようなイメージではなく「ほどかれる」感じがします。自分がほどかれて、ほんの少しだけ自由になってゆく感覚です。
あれこれ悩んだり、うーん…と唸っている瞬間では、なかなかこうした瞬間は訪れません。ヨガをしているとき、呼吸に意識を向けて、全身を一つにつながってゆく過程で頭の中が自然と空っぽになるのですが、そうした過剰な緊張から適度な弛緩(リラックス)へと移行する瞬間に、自分という空っぽの器の中に何かが降りてくる。何が降りてくるのかは自分で決めることはできなくて、それはもうご縁ですね。ご縁としか言いようがありません。
違う物事や場所をあれこれと、それこそ文脈に関係なく目的も決めず、気の赴くままに渡り歩くモード。それとは対極的に、一つの場所に通い詰めたり、一つの物事に打ち込み続けるモード。自分の中にある色々なモード。
好きなお店に通い詰めるとき、しばらくは同じメニューを頼み続けたり、購入することが多く、それはその場所の空気、呼吸、人の息づかいを自分の中になじませてゆくことに近いように思います。
しばらくそうした状態が続くと、少し気分を変えてみたいというか、いつもを外してみたいというか、抜け感がほしいという気持ちになってきます。それは「飽きる」とは少し違うのですが、反復し続けてゆく中に少しずつ差異を混ぜ込んでゆく感覚。
それもやっぱり、自分や相手の期待をスッと外してみたいというか、無意識に天邪鬼な自分が顔を出すというか、どこか遊びの感覚に近いです。
こうして棚卸してみると「飽きる・飽きない」というのも一つの循環の形であって、反復と差異が生み出すリズムに乗って日常生活の螺旋階段を登ったり、降りたりし続けているのかもしれないな、と。
「歩く」こともそう。
生活そのものがリズムの集まりであり、形であり、表現でもあります。
飽きる、という事は悪い事ですが、人間はどうしても、たとえどんな美しい物いい物と知っていても、やがて飽きてしまう性質を持っています。そのままで居れば幸福であるものを、わざと不幸を招く様な事をするのは、ほんとに馬鹿げていますけれども、もし人間が飽きっぽくなかったら、成長も発達もする気づかいはありません。
そう考えれば、物に飽きるという性質は、人類にとって何よりも大切であるという事になります。