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心は自分の肉体を越えてゆける

岡潔(数学者)による『数学する人生』を読み進めている中で説かれた二つの概念、唯物主義と個人主義。これらの概念について「物質には心がない、と思うのが唯物主義で、この肉体の中だけが自分だ、と思うのが個人主義」と説かれ、岡さんは「水の中に魚が住むように、人は心の中に住んでいる」「唯物主義と個人主義が心を濁らせている」と警鐘を鳴らしたわけです。

今回は「個人主義」との距離の置き方、つまり、「この肉体の中だけが自分ではない」というあり方について、岡さんの言葉を手がかりに思い巡らせてみようと思います。

 あなた方、小説を読むでしょう。小説にはいろいろな人が出てくるから、そのいろいろな人が自分だと思って読むでしょう。なにも主人公だけを自分だと思うわけではない。副主人公なんかも自分だと思っている。このとき、自分は固定されていないでしょう。あるときはある人が自分であり、他の瞬間は他の人が自分である。そんな風に読むから小説は面白いのです。読み耽ったら自ずからそうなっていく。

『数学する人生』(岡潔 森田真生編)

小説を読み進めていると、いつしか自分(主体)と小説(客体)という関係を離れ、自分が小説の登場人物の気持ちになっている。「いま自分は小説を読んでいる」という意識は薄れてゆく。転身、転心。心は本のこちらから、あちら側へと難なく移りゆく。この、「自分を忘れる」「自分という存在が意識から遠ざかってゆく」という経験そのものが、肉体の中だけが自分ではないということの証左のように思うのです。

小説でなくとも構わないでしょう。私は趣味で楽器を演奏していたのですが、本当に楽曲に入り込んでいる時というのは、自分の意識や存在は薄れている気がします。指を動かしているというより自然と指が動いている。楽器を鳴らしているというよりも楽器が鳴っている。自分と楽器という関係ではなく、自分が楽器、楽器が自分という感覚が湧き上がっていたことを思い返しました。

美しい景色に出会った時もそう。言葉に表せないその情景に、ただたひたってゆく。自分の心というのはいとも簡単に自己の肉体を越えてゆけるのですね。

これ以上多くを語る必要はないかもしれません。あとは岡さんのいくつかの言葉を引いて、閉じたいと思います。

 人はこうして、心の様々な位置に身を置くことができるのです。この位置を指して「自分」という。人本然の生き方において、自分といえば、現在心を集中しているその場所のことをいうのです。

『数学する人生』(岡潔 森田真生編)

 たとえば、芭蕉に、

蛸壺やはかなき夢を夏の月

 という句がある。他人はどうか知らないが、私はこの句を見るとこう思う。明石の浜に蛸壺がある(海の浅い砂地に壺をいけておくと、蛸はよいかくれ家だと思ってその中にはいっている。それを朝捕らえるのである)。蛸が一匹はいっている。それが私である。
 上を見ると、空(水面)一面の月である。静かに波が打っているから、それがキラキラ光って、何とも言えず綺麗である。私は美しい夏の月だなあと思う。夜が明けるまでの命とも知らないで。

『数学する人生』(岡潔 森田真生編)

松尾芭蕉の句にふれて、先日逝去された坂本龍一さんの楽曲「aqua」が頭の中に流れてきたので、こちらも添えます。いつしか自分が穏やかに満ちた水の中に融けてゆくような楽曲です。


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