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「時空」と「間」〜鹿おどしによる音の減衰を通して〜
「間を置く」あるいは「間を取る」
人はいつから「間」を意識するようになったのだろうか。
例えば「距離を置く」あるいは「距離を取る」と言えば、そこでいう距離は「空間的」である。
しかし、「間を置く」あるいは「間を取る」と言えば、そこでの「間」は「時間的」である。
距離は空間的、間は時間的。
はたして、そのように区別して良いものなのだろうか。
例えば、水で満たされた「鹿おどし」が、そのエネルギーを解放するように傾いて小気味よい音を立てる。
発せられた音は、その周囲へと減衰しながら広がってゆく。
この音の「減衰」という時空的な変化を通して、場の広がりが感じられて、充ちる静けさが一層深みを増す。
そう思うと「間」は「時空(時間と空間の総体)」として捉えられるものではないだろうか。
つまり心が一切の繋縛からの解放に在る時、生れ出るものが美に即するのだと説いて筋が通ろう。かくては「無碍心」の直かの現れを指す事になる。所で「無碍心」とは何処にも固定した住所にいない事であって、これを「無住心」と呼んでもよかろう。更に短く云えば「無心」と述べてもよい。この「無心」を「自在心」と云い「無碍心」と云い、又「不二心」とも云うのである。それ故もし自由に囚われたら、もう自由ではなくなる。
よく「自由主義」など説く人があるが、こんな自家撞着の言葉はあるまい。主義に囚われるなら、もう自由の圏外に落ちると云えよう。それ故「自在心」には主義主張は成り立たない事となろう。それは実に「自在」という考えにも囚われてはならないのである。「無心」には「自在」という考えだに影を留めはしない。強いて呼べばこれを「無相心」とでも云おうか。尤も一旦「心」と云えば又何かの概念に執する事になって、本来の「無心」の意からは離れて了う。しかしこれは言語にまつわる「業」の所行で人間の避け得ぬ命数とも云える。故に真の美は常に言外に在ると云える。「不立文字」が説かれる所以が此処にあろう。又「不言之言」などという表詮もここに発する。
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