家の中の物に映し出される自分
今日はミハイ=チクセントミハイ氏(アメリカの心理学者)による『モノの意味 - 大切な物の心理学』の第1章「人間と物」から「家の中の物」を読みました。では、一部を引用してみたいと思います。
人びとが使用し、彼らを囲んでいるさまざまな物のうち、われわれの研究は主として家庭に置かれている物に焦点を当てている。(中略)しかし、家庭にはきわめて特別な物がある可能性が高い - つまり、それらは日常的な注意を集めたり身近に置いたりするために選ばれた物であり、人の私的生活に永続性をもたらしうる物であり、それゆえ各人のアイデンティティ形成にもっとも関わりが深い。少なくとも家庭内にある物は、所有者の内面をあらわしている可能性が高い。家庭外で出会う物を統制することは不可能に近いが、家庭内の持ち物は選ばれたものであり、もし自己との葛藤が大きくなるようであれば、いつでも捨てられる。
このように、家庭の持ち物は、所有者の自己の姿を反映するばかりでなく、それを≪形成する≫記号の生態系となる。「生態系」ということばは、文字どおり家庭という生態の研究を意味すると思ってかまわない。
記号のこうした重要性にもかかわらず、そのことに相応の注意を払った社会科学者は皆無に等しい。たとえ注目した人でも、他者との関係性の記号として、つまり社会階層内における地位の象徴として、それらに関心を持ったにすぎない。(中略)心理学者もまた、家庭の持ち物についてあまり関心を示してこなかった。(中略)しかし、人間と物との関係を完全に理解するためには、人間を単なる神経ロボットと見ているのでは限界がある。物との交流に関する別の側面が、全体像の中に統合されなければならない。
「少なくとも家庭内にある物は、所有者の内面をあらわしている可能性が高い。家庭外で出会う物を統制することは不可能に近いが、家庭内の持ち物は選ばれたものであり、もし自己との葛藤が大きくなるようであれば、いつでも捨てられる。」
この言葉が印象的でした。
著者は本書で「人間と物との関係性」を考察するにあたり「物」を家庭内に限定しており、心理学、社会学の両分野で注目されてこなかった部分として取り上げています。
たしかに、自宅では物に囲まれて過ごしています。その物は自分で選んだ物もあれば、そうでない物もあります。昔からの物もあれば、最近の物もあります。
自宅の空間は有限ですから、物を無尽蔵に増やし続けることはできません。増えすぎたら減らす。物理的制約から入れ替える場合もあれば、自分の変化から入れ替える場合もあるかもしれません。
例えば、衣服はどうでしょうか。
自分の変化、それは肉体的な変化であるかもしれないし、あるいは精神面の変化・成熟かもしれませんが、何れにしても「自分に合わなくなってきた」と思うことから、替えることが多少なりともあるのではないでしょうか。
その「合わなくなってきた」という感覚を著者は「自己との葛藤」と表現しているように思いますが、家には自分の内面性を映し出す「物」にあふれている。とすると、物との関係を考えるときに、まずは「家」という身近な場所から考えてみることは、たしかに理にかなっているように思えます。
家には、昔から研究対象とされてきたステイタス・シンボルとしての「物」がどれだけあるでしょうか。「場所」が変われば「物」もその場所の空気というのか、佇まいというのか、その場所に相応しいと思われる物が自然と集まってくるように思います。
とすると「人間と物との関係性」を考える上で、人間と物を取り巻く「周囲の環境」にも意識を向ける必要があるのではないか。そのようなことを思いました。